◆◆◆平成政局史◆◆◆

ウチのサイトには、平成生まれの訪問者も多いですので、
衆議院選挙が行われる前に、この題材でFlashを作りたいと前々から思っていたものの、
その前哨戦と目される都議選の投票日が明日に迫る現在に至っても、
未だに着手すら出来ていない状態である事から、
取り敢えず簡単にですが、一連の流れを文章に起こしてみました。
ただしこれは、あくまで私の主観によるモノなので、
この見方が全てでは無い事を考慮した上で、以下の文章を読んで下さいね。

それと、記憶に基づき書いている部分も結構あるので、
事実誤認の事が書かれている可能性もあると思います。
そうした箇所がありましたら、サイトの方へ報告して下されば有り難いです。
誤りなどのある箇所に関しては、指摘を受け次第修正しますので。


第1章:自民党の5大派閥

第2章:最大野党・社会党

第3章:新党ブームの到来

第4章:55年体制崩壊の奇跡

第5章:自社さ政権と新進党誕生

第6章:政治変革は夢と潰えて

第7章:自民党復活と野党の混迷

第8章:最後の挑戦者・民主党

第9章:小渕政権と自自公連立

第10章:自民党内の不協和音

第11章:小泉劇場の到来

第12章:民由合併と小沢の復活

第13章:そして舞台は郵政選挙へ

第14章:小沢民主と小泉後継レース

第15章:小泉の影を引きずる自民党

あとがき





 第1章:自民党の5大派閥

1970年代前半、日本最長の7年8ヶ月も続いた佐藤政権の後継を巡り、
自民党5大派閥の領袖(ボス)により、総理総裁レースが行われました。
この5人の領袖「三木武夫・田中角栄・大平正芳・福田赳夫・中曽根康弘」より、
1文字ずつ取って出来た造語が、いわゆる『三角大福中』です。
三木派、田中派、大平派、福田派、中曽根派と、5つの大派閥があった訳ですね。
で、佐藤後継レースは、中曽根・大平・三木を仲間に付けた田中角栄が勝利を収め、
その後、残った4名も総理総裁の座を手にしていきます。

そして1989年、世界では米ソ両首脳によるマルタ会談で冷戦が集結し、
日本では昭和天皇の崩御、リクルート事件、消費税導入で揺れた年、
派閥の領袖も、『中曽根派』以外は既に代替わりが行われていて、
『三木派→河本派』『田中派→竹下派』『大平派→宮沢派』『福田派→安倍派』となっていました。
この辺まで来ると、ポツポツと聞き覚えのある名前も出てきますかねえ?
で、この中で最も力を持っていたのが、最大派閥「竹下派」でした。
つまり、「与党の中の与党」って事ですね。
55年体制下での日本の政治というのは、「自民党が与党、社会党が筆頭野党」というのが固定で、
政権交代の擬似行為が、派閥間での抗争によって行われていました。

そもそも、「55年体制」とは何かという所から始めると、
1955年、分裂していた右派社会党と左派社会党による『社会党再統一』が起こり、
それに対抗する形で数ヶ月後、自由党と日本民主党による「保守合同」が起こりました。
この保守合同で誕生したのが『自由民主党』ですね。
ちなみに、物凄く大雑把に言ってしまえば、
自由党は「吉田茂」中心の党、日本民主党は「鳩山一郎」中心の党でした。
そして今、吉田茂の孫である「麻生太郎」と、鳩山一郎の孫である「鳩山由紀夫」が、
政権を巡って激しく火花を散らしていると(笑)。
もっと言うと、鳩山由紀夫が引導を渡そうとしている自民党の初代総裁こそ鳩山一郎だったりします。
う〜ん、因果なんですかねえ?

って、話が脱線してしまったので、話題を元に戻しますと、
先述の5大派閥の中で、自由党の流れを汲むのが「田中派→竹下派」と「大平派→宮沢派」、
日本民主党の流れを汲むのが「福田派→安倍派」「三木派→河本派」「中曽根派」で、
角栄の佐藤後継レース勝利後、自民党内での主流派は旧自由党系の2派閥でした。
「叩き上げ軍団」である実業系の「田中派→竹下派」を『経世会』、
「エリート集団」である官僚系の「大平派→宮沢派」を『宏池会』と言ったりしますね。
「自民党一党による単独政権」とは言っても、
党内部では、主流派の旧自由党系と、非主流派の旧日本民主党系があり、
更に、主流派である旧自由党系の中でも、経世会と宏池会による主導権争いが行われていたと。

ついでに、党内の非主流派である旧日本民主党系の派閥も簡単に書いておきますと、
「福田派→安倍派」は、小泉政権後に特に有名になった『清和会』ですね。
「中曽根派」の『政科研』は、経世会・宏池会・清和会に比べると、知名度が薄いかな?
「三木派→河本派」は・・・領袖である三木の存在感により5大派閥の1つに数えられましたが、
もともと所属議員の数が多くない為、三木の後は他の4派閥より存在感が劣ります。
まあ旧日本民主党系は、与党内の非主流派と言う事で、
存在感の薄い多数の議員と、存在感を示そうとする少数のタカ派議員とに大別されますね。

ああ〜、何か前振りの昭和部分だけで凄く長くなってるなあ・・・・(笑)
本当はもっと、いろいろと説明を加えるべきなんでしょうけど、
そんな事をやってると一向に話が進まないので、一気に話を平成まで進めます!!
1989年、昭和天皇の崩御により、時代は昭和から平成へと移る訳ですが、
その時、日本政界を騒がせていた話題こそ「リクルート事件」でした。
リクルート社が、大物の政治家や官僚に対して手当たり次第に、
値上がり確実な未公開株を大量にバラ撒いていたという事件で、
各派閥の領袖や後継者クラスも、そのほとんどが受け取り名簿に名を連ねていた為に、
大規模な「汚職事件」として連日報道が行われ、国民の政治不信がピークに達し、
更にそこへ「消費税の導入」が追い打ちとなり、自民党への支持が大幅に下がりました。





 第2章:最大野党・社会党

そんな「自民党不信」一色の中で、同年7月には参議院選挙がありました。
ここで社会党は、憲政史上初の女性党首である『土井たか子』のもと、
多くの女性候補を立てて獲得議席を倍増させ、社会党が自民党を上回ります。
また、この年に労働組合「連合」が作った「連合の会」も、
社会党などの推薦を受け、いきなり11議席を獲得する大躍進を見せました。
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* 1989年 参議院選挙(126議席)
*  与党  自民:36
*  野党  社会:46 連合:11 公明:10 共産:5 民社:3 その他:15
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この社会党の大躍進は、「マドンナ旋風」や「おたかさんブーム」などと呼ばれ、
土井の「山が動いた」という名言と共に、政治構造変革への期待が高まりました。
何だかんだ言ってこの人、日本女性の権利獲得には、かなり貢献した人ですからねえ。
そして、この大躍進により、自民党は参議院で過半数割れへと追い込まれ、
実に41年ぶりに、参議院は衆議院と異なる首相指名(土井たか子)を行いました。
まあ勿論、衆参で首相指名を行った場合は衆院が優先されるので、
土井が首相になる事はありませんでしたけど、
ちょうど世界でも、冷戦構造が崩壊へ至る頃でした頃でしたからねえ。
41年ぶりの出来事に、「日本の政治も変わる時が来たのか!?」と国民は期待します。
・・・しかし、国民の期待を受けた社会党というのは、
55年体制に安住していた為に、本当に腐りかけていたんですよねえ・・・・

55年体制と言うのは、自民党が単独で政権を握り、
野党の大部分を握る社会党が、それに反対するという構造が出来ていて、
最初の10年くらいは、まだ社会党も「政権獲得」を目指していたのですが、
その後は自民党との「棲み分け」を行い、野党第一党という地位に胡座をかいていました。
ここで社会党について少し説明しておくと、
保守合同後の自民党に、旧自由党系と旧日本民主党系という枠組みが残ったように、
再統一後の社会党にも、右派と左派の枠組みが残りました。
簡単に言えば、現実に合わせて社会主義を実行していこうというのが右派、
逆に、社会主義の理念に現実を合わせていこうというのが左派です。
もっと大雑把に言えば、『右派=現実派』『左派=理念派』です。
戦後すぐの1947年、社会党から首相(片山哲)を出したのも、右派主導だからでした。

しかし、連立相手との妥協や、現実に対する妥協などから、左派が反発。
片山内閣はわずか1年あまりで倒れ、それにより社会党も右派と左派に分裂してしまいます。
その後、右派と左派は再統一を果たすのですが、主導権は左派へと移り、
内部対立や自民党とアメリカによる切り崩し工作により、右派の一部が社会党を飛び出します。
こうして飛び出した社会党右派の政党が『民社党(民主社会党)』ですね。
「西村真悟」の父親が党首を務めていたと言えば、どういった性格の党か判りますかね?(笑)
社会主義政党として、労働者への権利や福祉を唱えながらも、
同時に反共を掲げ、それが一致すれば外国の軍事独裁政権でも認め、
防衛政策に関しては、自民党よりもタカ派な対応をとりました。
言い様によっては、「国家社会主義」に近かったと言えるかも知れませんね。

って、民社党の話に脱線したので、ここから社会党に話題を戻しますと、
ただでも左派が主導権を握り、そこへ右派の離党が重なった為、
社会党の左派は、党内で主流派の地位を確保する事となります。
しかし当然の事ながら、理念派が主流派となる事で、
社会党による政権獲得の可能性は、現実的に大きく後退して行き、
「自民党は与党、社会党は野党」という役割を演じ始め、持ちつ持たれつの関係となります。
残された右派の方は、社民党や公明党と連携する『社公民路線』を模索したりもしたんですが、
下手に政権を目指すよりも、野党役を演じて自民党から「おこぼれ」を貰う方がおいしかったと。
具体的に言うと、野党役を演じて国会運営を影から支える事で、
公共事業の一部を分けて貰ったり、自民党の金で社会党のパーティー券を買って貰ったり(笑)。
まあ、ある面で、冷戦構造&高度経済成長の時代なら、
そうした八百長試合みたいな政治構造でも良かったのかも知れませんが、
日本にも世界にも「変革の波」が訪れた時、
自民党の方は、長年与党を務めていたので「腐っても鯛」ですけど、
社会党の方は、本当に単なる腐敗物になっていた・・・と言ったら厳しすぎるかな?
ともあれ、この後、社会党は没落の道へと転落していきます。
そうした意味で平成初期の「社会党の大躍進」は、最期に一瞬輝く蝋燭の炎だったのかも。

参院選の翌年、1990年に行われた衆議院選挙でも、
社会党は解散前より議席数を倍近くに増やします。
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* 1990年 衆議院選挙(512議席)
*  与党  自民:275
*  野党  社会:136 公明:45 共産:16 民社:14 社民連:4 その他:22
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ですがそれでも、自民党は過半数を十分に上回る議席数を獲得しました。
長年、野党役に甘んじてきて、政党としての力を極端に落としていた社会党は、
過半数獲得どころか、議員定数の4分の1程度しか候補を立てなかったんです。
今までのガス抜き野党役なら、それでも良かったかも知れませんが、
国民が望んでいたのは、大きな政治構造の転換でした・・・・
社会党は、そうした国民の要望にも応えられず、
更には、社会党が「反自民票」を1人占めした格好になった事で、
共闘していくべき社民党や公明党との距離も離れて行き、
結果的に、せっかく自民党を過半数割れに追い込んだ参議院でも、
社民と公明が自民寄りとなり、『自公民路線』が出来上がってしまいます。

ついでにですが、この1990年の衆議院選挙では、
オウム真理教が『真理党』を結成し、出馬していました。
象の帽子を被った白装束の信者たちが、麻原の歌声に合わせて激しく踊るという、
奇天烈な選挙活動を繰り広げて注目を集めましたが、当然ながらあえなく全員落選。
自らの当選を信じて疑わなかった麻原は、この結果に愕然。
「これは国家権力による陰謀だ」と捉え、あのような方向へ教団は走り出します・・・・
とは言え、この出馬の時点で既に、オウム問題に取り組んでいた坂本弁護士を、
「選挙の邪魔になる」と、妻子も一緒に殺害して山中へ埋めてるんですけどね。
当時から「弁護士一家の謎の失踪事件」として報じられていたのですが、
それがまさかオウムと絡んでくると、想像だにされてませんでした。
当時の麻原と言えば、「ビートたけし」や「とんねるず」などの番組にも出てましたからねえ。
ちなみに坂本弁護士の所属していた事務所からは、オウムの関与を指摘する声があったものの、
この法律事務所が、警察の誤認逮捕や盗聴事件などを扱っていた所であった為、
当時の警察側は反発して、まともに捜査してなかったと言われています・・・・
って、この辺になると、政局話から完全に脱線してますね(笑)。





 第3章:新党ブームの到来

自民党一党体制から、政権交代可能な体制への移行を望む国民に対して、
自民党と対抗し得る政党の不在は、大きな失望感へと繋がっていきます。
そんな中で起こったのが「新党ブーム」でした。
そして、その火付け役となったのが、
熊本県知事だった細川護煕が作った『日本新党』でした。
父方は旧熊本藩主の細川家、母方は公家筆頭の近衛家という血統の良さ、
そしてルックスの良さと、熊本知事や自民党参議院議員を務めた政治経験が相俟って、
この細川が作った日本新党は、国民の中で一躍人気となります。
今風に言えば、東国原知事の顔も血統も経歴も良くしたような存在です(笑)。
そんな細川を中心に、ルックスが良く知名度もあるを集めたのか、
経済評論家の海江田万里や、キャスターの小池百合子などが新党に参加。
冷静に考えれば、思いっ切り「イメージ戦略」先行の作戦を採ってるんですが、
まあ日本人の国民性は、昔も変わらずこう言ったのに乗せられると(笑)。
ちなみに、この日本新党が擁立した若手議員の中には、
現民主党の前原誠司や枝野幸男や野田佳彦、
現名古屋市長の河村たかし、現横浜市長の中田宏などが居ました。

こうした中で行われた1992年の参議院選挙。
89年に行われた前回の参院選での獲得議席数と比べると、
自民党は倍増近かったのに対し、社会党は半減以下、
そして日本新党が、新党ブームを生み出す小さな足跡を残しました。
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* 1992年 参議院選挙(126議席)
*  与党  自民:68
*  野党  社会:22 公明:14 共産:6 民社:4 日本新:4 その他:8
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一瞬の夢を見せられた後、そこからの転落を強いられた社会党では、
選挙に負けるたびに、右派と左派の抗争に伴い、党首の座がコロコロと交代。
統一地方選の敗北により、土井たか子から田辺誠へ、
この参院選の敗北により、田辺誠から山花貞夫へと代わっていきました。
また、前回の参院選でいきなり11人の当選者を出した連合の会も、
今回は1人の当選者も出せずに惨敗しました・・・・

一方その頃、自民党の方はどうだったかと言えば、
国民から不信を拭い去る為に、党内で「政治改革」を唱え始めます。
金が掛かる政治を変えようとして始まったこの行動は、
時間の経過と共に「政治改革」から「選挙制度改革」へと変わっていきます。
この選挙制度改革というのが、現在導入されている「小選挙区制」ですね。
ですがこれでも、党内では大きな抵抗が起きるんです。
しかし、それを強引に押し切ろうとしたのが、
父子2代で政治改革に情熱を燃やす『小沢一郎』でした。
普通なら中堅議員の小沢が1人張り切った所で、それが通る訳もありませんが、
小沢は「自民党影のドン」である金丸信に、まさに我が子の如く可愛がられていました。
そこで、党内でも良識派と見られていた「伊東正義・後藤田正晴・羽田孜」が、
政治改革の旗振り役を務める事となります。

ここで、自民党の4大派閥を確認しておきますと、
小沢や金丸が属する最大派閥「竹下派」の他は、
「宮沢派」「安倍派」「中曽根派→渡辺派」となっており、
リクルート事件で竹下内閣が倒れた状況から、竹下派からは総理総裁を出せないものの、
竹下派が味方した派閥の領袖が首相となれるキングメーカー状態になっていた為、
首相になりたい渡辺美智雄・宮沢喜一・安倍晋太郎は、表立って小沢に反対できない。
そこで出てきたのが、その3派閥で次世代のホープと目されていた
渡辺派の「山崎拓」、宮沢派の「加藤紘一」、安倍派の「小泉純一郎」の3名で、
彼らのイニシャルを取って『YKK』と呼ばれました。
で、YKKの役割は、竹下派のやる事には何でも反対の「抵抗勢力」でした(笑)。
この選挙制度改革などは、反対するのはなかなか難しい対象でしたが、
小泉などは「こんな改革は出来る訳ないから反対!!」と騒ぎ回ってました。
まさかその十数年後、そう発言した小泉自身が首相となり、
その選挙制度改革の恩恵で郵政選挙に大勝しようとは、人の世とは因果なモノですね(笑)。

ちなみにこの時は、東京都知事選で小沢が擁立した候補が敗れ、
そこに小沢自身の病気が重なり、自民党幹事長の職を降りてしまいます。
リクルート事件の影響で、小派閥の「河本派」から御輿として擁立された『海部首相』では、
小沢抜きの状況で、抵抗勢力の攻勢に耐えきられる訳もなく、
解散してでも改革を断行しようとしたものの、結局最後には内閣が倒れてしまいました。
この時の海部の置かれた立場は、今の麻生以上に脆弱でしたので・・・・
で、次の首相を決める事となり、金丸は「自分でやればどうだ?」と小沢に言いますが、
病気が治ったばかりの小沢は健康に不安があり、まだ40歳代と若かった事から、
「もっと経験を積み、健康が万全になってから」と、この提案を断ります。
結局その後、小沢は首相になれないまま現在に至ります。

小沢が首相をやらない以上、竹下派以外の3大派閥から首相を選ぶ事となるのですが、
順番的に言えば、安倍晋太郎が最有力候補と目されていたのですが、
首相就任への願望が強かった安倍も、67歳でその直前に病死・・・・
安倍派四天王と呼ばれた「三塚博・加藤六月・塩川正十郎・森喜朗」が争った結果、
安倍派の後継は三塚に決まり、加藤は派閥を離脱して「加藤グループ」を作ります。
こうして、渡辺、宮沢、そして安倍派を引き継いだ三塚の3人が、
自ら小沢の元へ出向いて、首相就任への面談試験を受ける事となります。
年齢も経歴も小沢より一回り二回り上な大派閥の領袖たちが、
小沢にヘコヘコ頭を下げ、「是非とも自分を首相に」と懇願する。
自民党の他派閥議員からの小沢憎悪は、これが大きく影響していると思います。
自分たちの親分が、格下の人間に頭を下げさせられている訳ですからねえ。
逆に小沢は、金丸の後ろ盾がある事で、若くしてこんな地位にあった為、
他人をうまく使う事が出来ず、傲慢な対応が目に付くようになったんでしょうね・・・・
で、この面談の結果、新首相は『宮沢喜一』となります。

こうして宮沢内閣が誕生するのですが、自民党の多くは選挙制度改革なんてやりたくない。
それは社会党などの野党側も同じで、小選挙区制への改革に対して「比例代表制」を提示。
今までのやり方なら、与野党まとまらず両案とも廃案・・・というのが普通でした。
しかし前述の通り、国民の政治意識は急激に変革を遂げており、
更に同じ頃、影のドンであった金丸が佐川急便からの献金問題で議員辞職へ追い込まれ、
国民からの「政治改革」を求める声が、宮沢を追い詰めていき、
宮沢はテレビ番組で「政治改革は今国会で絶対にやる。私は嘘をつかない」と断言してします。
ですが、そうは言ってみたものの、国会の方はなかなかまとまらない・・・・
そのうち宮沢がブレた発言を始めると、マスコミは一斉に「嘘つき!!」と責め立てます。

そんな中で、金丸が失脚した竹下派内では、竹下の後継者争いが激化。
竹下派には「竹下派七奉行」と呼ばれる次世代の人材がいました。
「小渕恵三・橋本龍太郎・梶山静六・小沢一郎・羽田孜・奥田敬和・渡部恒三」の7人です。
そもそも竹下派は、世代交代を拒む田中角栄に対し、「表の顔に竹下・裏の顔に金丸」と、
この2頭体制によって、クーデター的に田中派を乗っ取って出来た派閥であり、
この七奉行も、竹下系の小渕・橋本・梶山と、金丸系の小沢・羽田・奥田・渡部に分かれていました。
何事もなければ、後継者は金丸一押しの小沢で決まりだったのでしょうが、
後ろ盾である金丸が失脚した事で、最終的には梶山が押し立てた小渕が勝利します。
ここで小沢一派は竹下派を離脱し、政治改革派閥として「羽田派」を発足させると、
政治改革の方針で迷走する宮沢内閣を猛烈に攻撃し始めます。
一方、同時期に自民党内では、保守(右派)である羽田派とは一線を画し、
リベラル(左派)からの政治改革を求める「武村派」が誕生します。
こうして、党内からも、党外からも、世間からも、「嘘つき」と糾弾された宮沢内閣に対し、
野党が内閣不信任案を提出すると、羽田派が賛成に回り、宮沢は解散へと追い込まれます。

ここで、羽田派と武村派は自民党を離党し、
羽田派は「新生党」を、武村派は「新党さきがけ」を立ち上げます。
永年与党である自民党を離れるというのは、本当に決死の行為なんです。
企業も団体も、その議員が政権与党の自民党所属だから献金する訳ですからねえ。
自民党から割れた以上は、必ず自民党から政権を奪わなければならない。
常識的に言えば、こんな賭けの行動に出る政治家は居ません。
実際、竹下派から小沢を追い出した梶山も、「どうせ小沢に付いていくのは5〜6人」と読み、
積極的に小沢一派を離党の方向へと追いやって行きました。
しかし蓋を開けてみると、衆参合わせ50名近い羽田派の議員がほとんど付いてきた訳です。
これは本当、驚天動地の事と言って良いと思います。
ハッキリ言って、当時から小沢は世間的にあまり好れていませんでした。
ただし、その剛腕と能力は高く評価されていて、
離党当時の小沢には、一種の「オーラ」みたいなモノを漂わせる雰囲気でした。

一方で武村の方も、10名程度の小規模な離党とは言え、独自の存在感を示してましたね。
バブル景気に踊らされ、疲れ果てていた日本国民に対して、
小さくても確実なキラリと光る幸せを追い求める党風でしたからねえ。
こんな党風なので、「友愛」信者である『鳩山由紀夫』も新党へ参加しています(笑)。
おかげでさきがけは、金銭面での不安は無かったのかな?
鳩山兄弟の母方の祖父はブリヂストン創業者なので、金は滅茶苦茶持ってますから。
ちなみに弟・邦夫の方は、同時期に自民党を離党して無所属で戦っています。
党首の武村も「ムーミンパパ」と呼ばれるおおらかな風貌で、人気がありました。
でもこの武村、その風貌に似合わず、結構な策略家であり、野心家でして、
更なる人気と知名度を得る為、ある新党と手を組みます。
その手を組んだ相手こそ、先述した細川率いる「日本新党」でした。
両党は合併も見据える形で、まずは統一会派を組む事となります。





 第4章:55年体制崩壊の奇跡

新生党、新党さきがけ、日本新党と、新党が加わり行われた1993年の衆議院選挙。
小沢や武村の離党により、選挙前から大きく議席数を減らしていた自民党は、
もちろん過半数には達しないものの、議席数を1つ増やす大健闘。
新生党も、新党さきがけも、日本新党も、大きく議席数を伸ばします。
では、その分、どの政党の議席数が減ったのか?
それは「反自民票」を新党ブームに奪われた社会党でした。
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* 1993年 衆議院選挙(511議席)
*  与党  自民:223
*  野党  社会:70 新生:55 公明:51 日本新:35 民社:15
*      共産:15 さきがけ:13 社民連:4 その他:30
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前回の衆院選で大躍進を遂げた社会党が、今回の選挙では議席数を半減・・・・
当時の社会党の党首は、左派出身の山花貞夫でしたが、
この大敗により、右派出身の村山富市へ党首の座を明け渡します。
新聞は土井の名言と山花の名に引っ掛けて、「山動き、花散る」と報じました。
結局、この選挙で国民から不信任を受けたのは、自民党ではなく社会党であったと。
まあ、この結果を受けて、自民党はひとまず安堵します。
衆院での単独過半数は失ったものの、参院同様「自公民路線」を強化すれば、
衆参共に過半数には十分な議席数を確保できる目算があった為でした。

ですが、自民党の思惑通りに話は進みませんでした。
そもそも自公民路線を最初に築いたのは田中角栄であり、
その後、自民党の議席数が不足するたびに、暗黙の協力関係を結ぶようになりました。
で、特に公明党との関係は、自民党と公明党という政党間の関係と言うより、
田中角栄と池田大作の個人的な繋がりによって結ばれたモノでして、
その時点で小沢は既に、公明党とのルートを抑えていました。
「小沢一郎」と公明党No.2の「市川雄一」の強い結び付きは、『一・一ライン』と呼ばれます。
また小沢は、労働組合「連合」の会長である山岸章にも既に根回しを済ませており、
後援組織として労働組合に頼っている社会党や民社党も、切り崩しは困難な状況でした。
更に国民世論は、新たな政治構造の誕生を切望しており、
そうした追い風により、自民党が望む自公民路線は実現が難しくなります。

こうした状況下で、自民党も小沢も注目したのが、
統一会派を組んでいた「日本新党&新党さきがけ」でした。
「自民党」も、「新生党・公明党・民社党・社会党」も、共に過半数に達せず、
政権の所在を決めるキャスティング・ボードは、この統一会派が握っていました。
政権の座を死守したい自民党は、「政治改革」を旗印に掲げていた統一会派に対して、
彼らの改革案を飲む事で連立を組もうとします。
しかし、ここで小沢が打った手は更に大きく、
国民的な人気があるとは言え、衆院に35議席しか持たない日本新党の細川に対し、
なんと「首相」の座を用意して、連立への参加を促します。
結局、細川らは国民世論も読み、小沢が提示した連立案の方を了承。
細川は首相へ、武村は官房長官へと就任する事となり、ここに55年体制は崩壊します。
細川首相が率いる「日本新党」、武村官房長官の「新党さきがけ」、
政権の影の実力者である小沢の「新生党」、小沢と近しい関係の「民社党」と「公明党」、
与党内の最大政党ながら発言権のない「社会党」、70年代に社会党から分離した「社民連」、
連合の会より改称した「民主改革連合(民革連)」という、実に8つもの政党・会派が、
「非自民&政治改革」を唯一の旗印に参加する、寄せ木細工のような政権の誕生でした。

ですが国民には、新たに誕生した自民党ではない新政権が、
少しの不安はあるものの、大きな希望に満ちたモノに見えました。
国民に絶大な人気がある細川と、その辣腕は大いに買われていた小沢のタッグですからねえ。
ここ十数年の自民党政権では、発足時の内閣支持率は20〜30%台ばかりでしたが、
新生・細川内閣の支持率は、75%という驚異的な数値を叩き出しました。
この高支持率は、小泉内閣に抜かれるまで歴代1位の数値です。
それほどまで、国民の期待は高かった訳です。
逆に、政権を失って絶望する自民党からは、離党する議員が後を絶たず、
加藤グループが新生党へ加わったり、西岡武夫が「改革の会」を結成したりしました。
しかし現実は、政権交代がなったとは言え、8党派による恐ろしい程の寄り合い所帯。
更に野党議員や若手議員といった、国会運営に経験不足な議員が多数派では、
ハッキリ言って、まともに政策調整が出来るような状態ではありませんでした・・・・
そして、この内閣が掲げた「政治改革」という旗印のもと、
小選挙区300議席、比例代表200議席の『小選挙区比例代表制』導入が成し遂げられると、
寄せ集め政権は役目を終えたかのように、空中分解していく事となります。

また、政権陥落後の放心状態から立ち直った自民党は、
こうした不安定な連立政権に対し、猛烈な揺さぶり工作を始めていました。
政権下野後に行われた自民党総裁選挙で、
渡辺美智雄を破り、河野洋平が新たな総裁に就任すると、
連立与党を糾弾する自民党の先頭に立ったのは、
警察官僚出身で強力な情報網のコネを持つ、三塚派の亀井静香でした。
そして、政権の中心である細川首相の金銭問題が、いきなり狙われる事となります。
前述のように細川の血統は名家である為、
建物や名品などの維持管理費がバカにならないのですが、
その金に困った細川が、佐川急便の会長から借金をしている事実が明らかにされました。
佐川急便と言えば、直近でも金丸の事件があった為、
自民党はこの金銭問題を、大きく責め立てていきます。
正直言って、これくらいの疑惑なら何とか乗り切れる程度のモノでしたが、
うまく行かない政権運営に加え、細川自身の堪え性の無さから、
「道義的責任を取る」として細川が突然、政権を放り出してしまいます・・・・
この辺は、祖父である近衛文麿と同じ血なのかも知れませんね。
太平洋戦争の開戦間際、近衛も国民の期待を一身に受けて首相に就任するも、
それを途中で投げ出して、あのような結果へと至り、
半世紀後、その孫が戦後政治体制の変革という国民の期待を背負いつつ、
再び、それを投げ出して去ってしまうと。まあこちらも、歴史の因果なのかも知れません。
ですが、この突然の政権放棄により、国民の政治に対する期待は、失望へと変わっていきます。

で、そうした中、連立政権の内部でも、対立の構造がハッキリしてきます。
その中心に居たのが、自民党を割って出た小沢と武村でした。
政権内部の主導権では、公明党と社民党を握る小沢が強かったのですが、
それに反発する形で武村が独自行動を取る事で、内閣の結束は緩み、
親密だった細川と武村の関係は崩れていき、細川は小沢寄りへと傾いていきます。
一方で武村は、連立内で最大の議席数を持ちながら、
政権内では虐げられた扱いを強いられていた社会党に接近します。
まあ新党さきがけは左派的な政党だったので、社会党との親和性が高かった面もあります。
そんな中で起きたのが、「国民福祉税」構想でしたねえ。
これは消費税3%の代わりに、税率7%の福祉目的税を導入するという案で、
昨今の年金や保険の問題を見ると、個人的には決して悪くない案だとは思うのですが、
如何せん、政権内での根回しもほとんど行っていない状況で発表され、
さきがけや社会党、そしてマスコミから大バッシングを受け、わずか1日で案自体が撤回されました。
この件で「小沢&公明党」vs.「武村&社会党」という対立構造が、国民へも表面化していきます。
当然、当初は蜜月関係にあった日本新党と新党さきがけの統一会派も解消となり、
前原や枝野らは日本史党を離党し、その2ヵ月後には新党さきがけへ合流。
日本新党と連携していた「社民連」では、代表であった江田五月は日本新党へ参加、
社民連の有力議員であった菅直人は新党さきがけへ加わり、社民連は解散となります。
菅・前原・枝野と言った民主党の面々が、さきがけの一員となるのはこの時です。





 第5章:自社さ政権と新進党誕生

政権内部の対立と、細川の政権放り出しで、新しい内閣の誕生が必要となってきます。
この時、社会党は最大与党である事を理由に、社会党から首相を出すよう主張しますが、
当然、小沢がそんな要求を聞く訳がありません。
その頃小沢は、自民党の渡辺美智雄にアプローチしており、
渡辺派が自民党を割って出れば、連立政権の首相に据えると口説くと、
その先兵役として、渡辺派から柿沢弘治や太田誠一などが離党して「自由党」を、
(小沢自由党と区別する為、一般的には柿沢自由党と呼ばれます)
三塚派から鹿野道彦や北川正恭(のちの三重県知事)などが離党して「新党みらい」を結成。
下野後の総裁選でも敗れ、年齢的にもこれが渡辺にとって最後のチャンスでした。
未だ巨大すぎる自民党を弱体化させたい小沢と、どうしても首相になりたい渡辺、
お互いの利害が一致した提案であり、金曜日の夜に渡辺はテレビで離党を口にします。
しかし、そこは腐っても自民党!!
週末2日間で猛烈な渡辺派の切り崩しを行い、ほとんどの議員が離党反対に翻った為、
渡辺の首相への夢は敗れ、その後は自民党内でも実権を失ってしまいます・・・・
一方、渡辺派の離党工作に失敗した小沢は、
自党の党首である羽田を、首相の座に据える事となります。
ちなみに、羽田政権から連立へ参加した政党からは、
柿沢自由党の柿沢が外務大臣に、改革の会の鳩山邦夫が労働大臣に入閣しました。
人柄が良く、清廉なイメージのある羽田は、連立内の他党からも人望がありましたが、
そうした人の良さが、このような激流の政局期には不似合いで、
盟友である小沢も、本心では羽田を擁立したくはなかったようですが、
事情が事情だけに仕方ありません・・・・
ですが、こうして誕生した羽田内閣の首を絞めたのも、結局小沢でした。

政権の安定化を図りたい小沢は、羽田首相が誕生したその当日に、
新生党・日本新党・民社党などの5党派が、統一会派「改新」を組むと発表します。
これに激怒したのが、統一会派構想を全く聞かされていなかった社会党で、
政権を維持する為に小沢との関係を保ってきた右派も、さすがにこれでキレてしまいます。
翌日、社会党は連立政権を離脱し、新党さきがけも閣外協力に立ち位置を変更。
羽田政権は誕生からわずか1日で少数与党へと転落してしまいます。
つまりこれで、いつでも内閣を引きずり倒せる状態に置かれた訳ですね。
ですが政権への未練を持つ社会党は、社会党から首相を出す事を再提案。
しかし小沢はこれに応えず、自民党の引き剥がし工作を画策し続けます。
その結果、自民党とも社会党ともパイプを持つ武村が、両党の橋渡し役となると、
どうしても政権を奪い返したい自民党は、社会党の村山を首相に推す事に同意。
これにより、羽田内閣の不信任案が可決します。

不信任案可決に対し、羽田は「解散して国民に信を問うべき」と主張しますが、
小沢は、「自民党の分裂工作が可能」だとして解散に反対。
村山への対立候補として、自民党から海部元首相を担ぎ出して、
社会党との連立に反発する自民党議員や、
自民党との連立に反発する社会党議員を引き込もうとしますが、
渡辺や中曽根と言った自民党内のタカ派が、海部への支持を表明した事で、
小沢との関係修復も模索していた社会党右派が、却って遠ざかる結果となり、
結果として自社さ連立政権が誕生して、非自民政権はわずか1年未満で終了します。
まあ、自民党と社会党は、55年体制下で八百長試合をやってきた間柄でしたからねえ。
社会党左派と自民党は、かなり早い段階から画策を続けていたみたいです。
ただ流石に、自社2党だけでは、世間の目もあり抵抗があったものの、
その間に「さきがけ」が入ってくれる事で、無事に連立を組むことが出来たと。
ちなみに、海部と行動を共にした津島雄二や野田毅などは、
首相指名選挙で村山に敗れた後、自民党を離党して「高志会」を結成し、
更には、自民党離党組の「改革の会」「柿沢自由党」「新党みらい」と共に、
政党連合「自由改革連合」を結成します。

こうして、わずか10ヶ月で与党へと復帰した自民党。
他方で野党の方は、公明の市川が野党統合を渋る創価学会を説得し、
「改新」に公明党などが加わって、新たに『新進党』が誕生します。
新生党・公明党・民社党・日本新党・自由改革連合が解党して集まり、
衆参合わせて200名を越える、政権交代を目指す大政党の誕生であり、
その初代党首となったのは、小沢が首相指名選挙の時に担ぎ出した元首相の海部でした。
ただしこの時、自由改革連合の柿沢と津島は、新進党に参加せず自民党へと出戻ります。
ちなみにこの党名、新党ブームに続く新党として、
マスコミが「新・新党」と仮称していたモノが、字面を変えて正式名称となったモノです(笑)。
しかし、いくら1つの党として合併したとは言っても、所詮は寄り合い世帯。
細川内閣や羽田内閣の時と同様、旗頭は「非自民&政権交代」しかありませんでした。
また、この合併へと至った大きな理由の1つは、
自分たちが通した選挙制度改革により、次回より衆院選は小選挙区制となる為、
「大政党とならなければ不利だ」という思いも働いた、打算的な計算が働いた結果でもありました。
ですが、一応これにより、自民党と新進党による「二大政党制」への道筋が描かれた・・・はずでした。

新進党は、出だしこそ好調でした。
結党から半年後、1995年の参議院選挙において、
新進党は改選議席を倍増させ、比例得票数では自民党を上回ります。
その一方で、首相を輩出させた社会党の方は、過去最低の獲得議席数に転落・・・・
数年前の社会党大躍進を支えた反自民票は、完全に新進党へと奪われ、
しかも従来の支持層からも、自民党との連立で見捨てられた結果でした。
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* 1995年 参議院選挙(126議席)
*  与党  自民:46 社会:16 さきがけ:3
*  野党  新進:40 共産:8 民革連:2 その他:11
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社会党からの首相誕生は、奇しくも社会党没落の転換点となってしまった訳です。
そして、社会党と連立してまで与党に帰還した自民党は、
ジワジワと党の力を回復していきます。
この参院選の結果は、自民党と社会党による「1.5大政党制」から、
自民党と新進党による「2大政党制」の可能性が垣間見えた瞬間でした。





 第6章:政治変革は夢と潰えて

2大政党制の実現へ向け、好調な発進をした新進党。
しかし、結党からわずか1年で早くも亀裂が表面化します。
それは寄り合い世帯という党の対立から来るのではなく、
なんと、小沢の土台である旧新生党の内部対立でした・・・・
もともと新生党というのは、小沢の力が大きな政党であったものの、
派閥の長、そして新党の党首というのは、常に羽田だった訳です。
つまり、表の顔役に「人柄の羽田」で、裏の顔役が「剛腕の小沢」の2頭体制で、
羽田を慕って付いてきた人間や、傲慢な小沢に付いていけなくなった人間が、
新進党の実権を握り、更に増長してきた小沢に反発するようになります。
強力な団結力も、いったん対立関係になると凄まじくなる・・・・
結党1年後の党首選挙で、彼らは羽田を擁立して小沢に対抗します。
小沢と2人でやってきた羽田としては、自身が新進党の党首となっても、
新生党での関係を新進党でも続ければ良いと考え、小沢もそれに同調するのですが、
「両方とも旧新生党から出しては、党内の結束が乱れる」と、羽田擁立派は小沢降ろしを敢行。
ここまで来てしまうと、小沢自らが党首選に出馬するしかなくなります。
ちなみにこの党首選は、前代未聞の方法で行われるのですが、
それは、「1000円を払えば国民なら誰でも投票出来る」という選挙方法でした。
有権者の関心と政治資金をダブルで得ようと制定されていた方法でしたが、
元・経世会同士の戦いとなっては、そんなキレイな選挙になるわけありません。
結局、そうした裏の工作に長けた小沢が圧勝で羽田を破り、
裏の顔役で居たかった小沢は、自らも望まなかった『党首』という表の顔に就きます。

一方、その頃の自社さ政権ですが、
社会党の内部では、右派などから自民党との連立に疑問が呈され続け、
左派出身ながら細川政権では閣僚を務め、右派の中心人物となっていた前党首の山花が、
新進党に参加しなかった旧日本新党の海江田万里や、
新進党へと参加していた旧民社党系などと諮り、民主リベラル系の新党結成を模索。
新たに誕生した新進党は、小沢が率いるだけあって自民党以上に保守的傾向が強く、
自民党と新進党による2大政党制は、「保守vs.保守」の2大政党制でしたからねえ。
社会党が国民の支持を失った以上、リベラル系の政党が必要と考えた訳です。
そして、新党結成を発表しようとした当日の朝、阪神大震災が起きます・・・・
当然、新党結成の発表は延期され、機を逸した事で話は後退。
最終的に、山花など数名が社会党を離党し、この構想は不発に終わり、
その半年後、離党した山花は海江田と合流して「市民リーグ」を結成します。
ですが、こうした一連の動きが、後に『民主党結成』への布石となって行く訳です。

こうして、党内部では前党首による分裂騒動が起きる中、
55年体制下の万年野党、しかも非主流派の右派に居た村山は、
突如巡ってきた「総理大臣」という役職を手に持て余し、
更に運の悪い事に、オウム事件や阪神大震災などの国難が立て続けに起こり、
その上、社会党も国民からの支持を落として選挙に惨敗しと、
村山首相は完全にギブアップ状態になっていました。
宮沢内閣崩壊から実に2年半、ついに自民党は政権の中心に復帰します。
しかしその時、既に自民党総裁は、河野洋平から橋本龍太郎に替わっていました。
政権与党に復帰した事で、勢力を盛り返してきたのは自民党だけでなく、
自民党の最大派閥であった小渕派も、小沢一派の分裂から回復してきていた訳です。
自社さ政権によって、自民党が与党に復帰してから初めて行われた総裁選で、
最大派閥「小渕派」から、切れ者として知られ、女性人気もある橋本龍太郎が出馬。
離党騒動があった「渡辺派」は死に体で、「宮沢派」も橋本支持に回ると、
現総裁の河野は総裁選前に降りてしまい、橋本が新総裁となります。
その為、今現在で河野洋平は『総理になれなかった唯一の総裁』となっています。
ちなみに、一応格好としては総裁選を行おうと、
河野が降りた後、「三塚派」が形ばかりの対立候補を擁立します。
これが小泉純一郎にとって、初めての総裁選出馬でした。

こうして、政権の表舞台へと戻ってきた橋本率いる自民党。
2大政党制を目指し、それに立ち向かう小沢率いる新進党。
竹下派の後継を巡り構想を繰り広げた両派の戦いが、
形を変えて再現される・・・と、見られていたのですが、
ここでも小沢は自民党の分裂工作・・・と言うか、
両党の左派を切り捨て、保守同士による「保保合同」を画策し始めます。
新進党の中心は自らが押さえ、自民党の中心は勝手知ったる出身派閥でしたからねえ。
橋本首相の不正融資事件に関しても、同じ七奉行であった奥田を中心に、
新進党内で対策チームが作られるのですが、小沢が自民党との連携を画策していた為に不発。
一方、宮沢派の後継と目され、自民党左派の中心人物になっていた加藤紘一官房長官は、
新進党への分断工作を行い、所属議員をドンドンと自民党へと引き抜いていきます。
安倍内閣で大臣を務めた高市早苗なども、こうして自民党へ引き抜かれた内の1人で、
現農水大臣の石破茂も、いったん無所属を介して、新進党から自民党へと移っていき、
遂には「小沢の秘蔵っ子」と呼ばれたまでが船田元、
新党さきがけの鳩山由紀夫と連携し、『鳩船新党』の結成を画策するまでの自体となります。
融和と団結を唱える新進党内の大勢に対し、小沢は更なる剛腕で対抗。
小沢・羽田・細川の党内3頭会談が行われるも、小沢が態度を改めず物別れに終わり、
政権交代を賭す大事な衆院選を前に、既に新進党の内部はボロボロとなっていました・・・・





 第7章:自民党復活と野党の混迷

1996年、55年体制が崩壊してから初めての衆議院選挙が行われます。
自民党を下野させて、8党派連立で生まれた細川政権、
連立内部のゴタゴタから、少数与党であった羽田政権、
国民が驚天動地した、自社さ連立の社会党・村山政権、
そして、政権の座へと再び返り咲いた自民党の橋本政権。
めまぐるしく政局が動いたこの3年間、国民は傍観者を強いられましたが、
ここでようやく、国民の主張を国会へ届ける機会が訪れた訳です。
主要政党は、連立与党である「自民党」「社民党」「さきがけ」、
これに対する野党は「新進党」と「共産党」、
そして、誕生したばかり『民主党』がありました。

まずはこの年の始め、凋落する一方の社会党は、
自らのイメージを刷新する為にも、党名を「社会民主党(社民党)」へ改称します。
しかし、そんな事で国民の支持が戻ってくる訳もありません・・・・
こうした凋落傾向は、同じく連立を組む新党さきがけも同じでした。
自民党と社会党の連立を橋渡しし、あわよくば自ら首相にという武村の密かな野望も、
連立パートナーである自民党にエネルギーを吸い取られ、
自民党が政権与党として立ち直ると共に、両党とも用済み扱いになっていました。
復活した自民党と、それに挑む新進党による、保守と保守の2大政党制。
「リベラル」を標榜する両党にとって、この体制はまさに自らの存亡の危機でした。
そうした危機感の中で動き出したのが、さきがけ所属の鳩山由紀夫でした。
山花たちとの新党構想が潰えると、続いて新進党の船田と新党結成を画策。
最終的には、当時は新進党に所属していた弟の鳩山邦夫、
「社会党のプリンス」と呼ばれながら、北海道知事に転身して政界激変の外にいた横路孝弘、
そして、薬害エイズ問題の対応で当時人気を博していた、さきがけ所属の厚生大臣・菅直人。
この4名が中心となり、社民党・さきがけ・新進党の離党組と共に、
「市民リーグ」「民革連」が加わり、第1期とも言うべき『旧・民主党』が誕生します。
ちなみに、この時の結党費用25億円は、鳩山兄弟の個人資産から15億円、
民革連の母体であり、社会党最大の支援団体である労働組合「連合」から10億円の借金
という内訳だったらしいです。

この新党へは、その母胎ともなった新党さきがけの議員を始め、
人気下落に歯止めが利かない社民党議員からも、参加の希望が殺到します。
しかし、自民党から新進党へと歩んできた鳩山邦夫は、
旧態色と左翼色が強まる事を警戒し、両党の大物議員の参加を頑なに拒否。
『排除の論理』と呼ばれたこの行動で、村山や武村は新党参加から弾き出され、
新党へ参加しなかった議員と共に、社民党とさきがけは小政党として残ります。
こうして新党へは、さきがけから前原、枝野、野田などの現・民主党の実力者が、
社民党からは、山花の新党構想に乗りかけた旧右派系の議員が加わりました。
ちなみに、保守系の新党結成に拘って鳩山との新党構想を断念した船田は、
新進党にも居られなくなり、無所属を経て自民党に出戻ると、
同時期に新進党から自民党へ移った元NHK女子アナの畑恵議員と不倫の末、結婚。
自民党離党以前には「竹下派のプリンス」と呼ばれ、
新生党や新進党では「小沢の秘蔵っ子」と呼ばれた名門家出身の有望議員は、
「政界失楽園」と騒がれたこの略奪婚により、落選の憂き目に合います。
今では国政に復帰していますが、こうした経歴から大きな役職には就けていません。

こうして『自民党・新進党・民主党』の三つ巴で行われた1996年の衆議院選挙。
新進党がおよそ半世紀ぶりに、自民党以外で議員定数の過半数以上の候補を擁立し、
更には、選挙制度改革の結果生まれた「小選挙区比例代表制」での初選挙でもあり、
この三つ巴の衆議院選挙は、国民の大きな関心を集めていました。
しかし蓋を開けてみれば、1年前の参院選での大躍進が嘘のように、
新進党は自民党を上回る所か、微減とは言え解散前の160議席すら下回る結果に。
党内部は、小沢の強引な政党運営により空中分解寸前の状態であり、
小沢に付いてきた保守層は、宗教政党である公明党を取り込んだ事が嫌われ、
小沢の能力に期待した有権者も、大型減税などの飴玉ばかりの政策提示に呆れ、
無党派層の目は、誕生したばかりの民主党へと奪われた結果でした。
*****************************************************************************
* 1996年 衆議院選挙(500議席)
*  与党  自民:239 社民:15 さきがけ:2
*  野党  新進:156 民主:52 共産:26 民改連:1 その他:9
*****************************************************************************
他方で民主党は、いきなり50議席を越える好調発進で、
自民党の方も、過半数近くまで議席数を戻して来る一方、
社民党とさきがけは完全に凋落し、連立政権でも閣外協力へと転落。
また、政界全体巻き込んだ政権争いのゴタゴタに嫌気がさした層を、
常に野党で居続けた共産党が吸収し、小規模ながら躍進する事となります。





 第8章:最後の挑戦者・民主党

「自民党から政権を奪う」という目的だけで寄せ集まったものの、
その最初の挑戦で、いきなり躓いてしまった新進党。
この選挙結果により、新進党は崩壊への道を進んでいく事になります。
選挙までは我慢していた反小沢派も、この敗北により動きが活性化し、
一方で小沢も、こうした反対分子を全て切り捨ててしまおうとします。
こうなってはもう、新進党が政党として形を保つ事すら困難でした。
選挙から2ヶ月後、まずは羽田グループが新進党を離党して「太陽党」を結党、
その半年後には、細川グループが離党して新党「フロムファイブ」を結党と、
新進党を代表する3人の内、羽田と細川の2人までが党を離れる事となります。
そして細川離党の半年後、今度は国会議員と都道府県連の代表で行われた党首選で、
小沢は再選を果たすものの、反小沢派を糾合した鹿野道彦が45%あまりの票を獲得。
反小沢の声が、党内でこれ程の勢力になっている事が明らかとなると、
そうした反対派に対して、歩み寄りの姿勢を見せるのではなく、
党首選から数日後、小沢は突如として『新進党の解散』を宣言します・・・・

「小沢が作り、小沢が壊す・・・」
この辺りからですかねえ、小沢が『壊し屋』の異名で呼ばれるようになるのは。
当然、この一方的な解党宣言に対して、ほとんどの新進党議員が反発し、
小沢グループの中からも、岡田克也などが「有権者に対する裏切りだ!!」と猛反発。
しかし、既に羽田や細川も離党し、小沢が解党へと進む中、
彼ら3人の他に、この寄り合い世帯を纏められる中心人物は新進党内に居らず、
望むと望まざるとに関わらず、新進党は解党する事になってしまいます・・・・
この結果、親小沢派の「自由党」、反小沢派の「国民の声」、
旧民社党系の「新党友愛」、若手議員が集まった「改革クラブ」、
旧公明党衆議院の「新党平和」、旧公明党参議院の「黎明クラブ」に分裂。
解党前に分離した、羽田の「太陽党」、細川の「フロムファイブ」も合わせ、
自民党との2大政党制を目指した新進党は、わずか3年で8つの政党に分裂しました。

ですが小沢としては、これを後退とは捉えていませんでした。
小沢が目指す2大政党制は、あくまで「保守vs.保守の2大政党制」、
もっと分かり易く言えば、『2つの自民党による2大政党制』こそが最終理想形であり、
その為には、未だ大勢力である自民党を巻き込んでの政界再編が必要でした。
新進党という器を作り、自民党から一部を取り込もうという構想は失敗し、
ならば、いったん自民党と一緒になってから、それを再び割ろうという案も実らず、
そうこうする内に器がひび割れして来たから、器自体を捨ててしまった・・・・
これでは、人が付いてくる訳ありません!!
新進党を解党し、新たに自由党を結党した時も、
小沢本人は「100人(新進党議員の半分)は付いてくる」と考えていたそうですが、
実際に小沢へ付いてきたのは50人あまりでした。
そして小沢は、「自民党と連携し、そこから再編」という方針を再び定めます。

「一・一ライン」により、今まで小沢に付いてきた公明党も、
衆議院選挙の敗北を受け、小沢から離れていきました。
まあ公明党の側からすると、市川の説得により新進党結党に参加したものの、
新進党への糾弾役である亀井静香から、創価学会本体への攻撃を仕掛けられた事で、
政権を狙う立場ではなく、政権を担う立場へと目指す方針を変更した訳です。
こうして小沢と袂を分かった後、新進党へ参加しなかった「公明」、
新進党衆議院に属した「新党平和」、新進党参議院に属した「黎明クラブ」、
以上3つに分かれていたモノが1つに集結して、再び「公明党」を結成します。
その為、再結成された現在の公明党は、「NEW KOMEITO」という英語表記になっていますね。
ちなみに、新進党合流前の英語表記は「THE KOMEITO」でした。

こうして、新進党の崩壊により誕生した「自由党」と「公明党」は、
「反自民」を唱えてきた為、すぐにと言うのは無理でも、
機会を捉えて、自民党と連携する道を探る事となります。
一方、「太陽党」「フロムファイブ」「国民の声」「新党友愛」は、
新進党時代と変わらず、『自民党との政権交代を』という路線を堅持し、
「民主党」と共に、まずは統一会派(民友連)を結成。
しかし参院選を目前に控え、「統一会派よりも新党を」という流れになると、
太陽党・国民の声・フロムファイブの3党が合併して「民政党」を、
続いて統一会派の民友連が政党結成へと動き「新・民主党」が誕生します。
と、こうやって書くと、新・民主党の誕生までスムーズに行ったように見えますが、
現実は、なかなか上手くは進みませんでした・・・・

民主党以外の政党には、どうしても離合集散のイメージが付きまとい、
会派内での民主党主導に対抗すべく、民政党を結成してみたものの状況は変わらず、
合併構想は早くから出ていたものの、優位な状況の民主党は「吸収合併」を頑なに主張。
構成議員に旧社会党や旧さきがけが多く、リベラル色の強い民主党に対し、
保守系の民政党はただでも抵抗感があった上に、
吸収合併とまで言われて、さすがに唯々諾々と従うことは出来ない。
新党構想はご破算になる可能性が出てきた時、間を取り持ったのが細川護煕でした。
細川は「民友連で新党を結成するが、新党の名前は民主党」という妥協案により、
ようやく両者を説き伏せ、名前は同じだが新政党である「民主党」が誕生します。
まあ、ここからは第2期の民主党って感じですかねえ?
代表の座には、未だ国民からの人気抜群の菅直人が就任しました。
ちなみに、この新・民主党結成に尽力した細川は、
結党から3日後、還暦を迎えたのを機に、
「自分の仕事は終わった」と、突然議員を辞職してしまいます。
国民の目から見て、本当によく分からない人物でした、細川は(笑)。





 第9章:小渕政権と自自公連立

こうして行われた、1998年の参議院選挙。
この選挙を前に、社民党とさきがけは閣外協力も解消し、
完全野党として挑みますが、それで党勢が蘇る訳もなく沈没・・・・
一方、単独与党となった自民党は、バブル崩壊後の経済下で、
景気回復と財政再建という相反する課題に直面しており、
選挙を前に「増税だ」「いや、減税だ」と政策がぶれ始め、結果として大敗北。
この敵失により、新鮮味を失い苦戦が予想された民主党が躍進し、共産党も健闘します。
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* 1998年 参議院選挙(126議席)
*  与党  自民:44
*  野党  民主:27 共産:15 公明:9 自由:6 社民:5 その他:20
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自民党では、この敗戦を受けて橋本が退陣。
総裁選には、「小渕派」から小渕恵三と、派閥の意向に逆らい梶山静六が出馬し、
そして「三塚派」からは、派閥後継候補の森が再び小泉が擁立。
まあ森派の小泉擁立は、中立を維持する為の戦略的な意味合いがありました。
党内の主導権を握る最大派閥から、小渕と梶山の2人が出馬して激突した訳ですからねえ。
しかし三塚派内の後継争いから、亀井静香など一部が小泉ではなく梶山を支持します。
まあこれが、後々に亀井一派の三塚派離脱に繋がる訳です。
で、総裁選の方の結果は、当然の如く小渕の圧勝に終わりました。
こうして衆議院では小渕が首相指名を受けますが、
この参院選敗北により、自民党が過半数割れした参議院では菅直人を指名。
衆参で首相指名が異なるのは、土井の時は41年ぶりでしたが、
今度は土井から9年ぶりの出来事でした。

ここでちょっと、「竹下派七奉行」と呼ばれた7名の足跡を辿ってみます。
竹下の後を担う最大派閥のニューリーダー候補として、
竹下系の小渕・橋本・梶山、金丸系の小沢・羽田・奥田・渡部が居た訳ですが、
金丸の議員辞職後、竹下は後継者を小渕恵三に決めます。
自系統の3人の中で、橋本と梶山は優秀だが野心家でもあった為、
最大派閥を纏めて行くには、自分と同じ「調整型」の小渕が最適だと考えたんでしょうね。
実際に小渕は、自分より先に橋本を首相の椅子へと座らせていますから。
ただ、こうして橋本が首相の座を射止めた事で、
もう一方の梶山としては、「次の首相は俺だ」という思いが強かったのでしょうね。
橋本の退陣を待つ所か、新進党の小沢と組んで、橋本を追い落とそうとした事もありますし(笑)。
田中角栄が、「もし俺の寝首をかく奴がいるとすれば、それは梶山だ」と評し、
金丸信が、「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と評した政治家ですからねえ。
って、この総裁戦時に田中真紀子が評した
「軍人(梶山)、変人(小泉)、凡人(小渕)」というのが、一番有名なのかな?(笑)
ですが参院選で惨敗を喫し、参議院で過半数割れを起こした自民党は、
危険な異才である梶山に賭けるより、調整型の小渕に党内建て直しを期待した訳です。
と言いますか、中選挙区時代には福田や中曽根と同じ選挙ながら連続当選を果たし、
今はこうして最大派閥を纏め上げている以上、生半可なバランス能力ではありませんでした。
ちなみに金丸系の4名は、この当時、小沢が自由党、羽田と奥田が民主党所属でしたが、
この参院選の4日後、奥田はガンの為に帰らぬ人となっています。
また、残る渡部は、野党から出される衆議院副議長の職に新進党から就任し、
慣例として副議長任期中は無所属で居た所、その間に出身政党が解党してしまい、
歴代最長となる2500日あまり副議長職を勤めた後、民主党へと参加します。

と、何故こんな所で、改まって竹下派七奉行の話をしたかと言えば、
小渕内閣は誕生したものの、自民党単独では参議院の議席数が過半数に足りず、
結果として、何処かの政党と連立を組む必要性が出てきていた為です。
ここで最初に手を組んだのが、同じ七奉行出身である小沢率いる「自由党」であった訳ですね。
まあ一時は、この参議院選挙での自民党惨敗により、
民主党・自由党・公明党の野党共闘で自民党を切り崩し、政権を奪い返す動きもあったのですが、
経験の乏しい民主党の動きは鈍く、逆に自民党は小渕によって党内の結束が高まっており、
自由党は自民党との連携を探る路線へと回帰し、そこへ自民党からのお誘いが来た訳です。
小沢としては、「政策を実現するには政権へ、そして自民党の引き剥がしを」という思惑があり、
自民党と自由党の連立樹立に前向きでしたが、自由党の参議院を足しても過半数には足りません。
では何故、自民党は自由党と連立を組むのか?
それは、先ずは自由党と連立する事で、他党が連立に参加しやすくなる状況を作る事でした。
その他党とは、具体的には「公明党」の事です。
自民党と公明党が組めば、自由党抜きでも衆参共に過半数に達します。
ですが自民党内には、宗教政党である公明党を毛嫌いする議員も多く、
また公明党の方も、新進党時代の自民党による創価学会攻撃で警戒心が強かった。
つまりは自民党側からすると、自由党をダシに使おうと連立を組んだ訳です。
自自公3党での連立となれば、党内での批判の声も、自公2党での連立よりは薄れますし、
連立参加した小沢の「比例削減案」は、比例に頼る公明党には黙っていられませんからねえ。

小渕内閣において、こうした画策を行ったのは官房長官の野中広務でした。
野中は竹下派を割って離党した小沢を蛇蝎の如く憎んでおり、
小沢の事を「悪魔」と呼んで憚りませんでした。
新進党時代の小沢が、自民党内の梶山との連携を模索していた時も、
それを事ある事に阻んできたのも野中だっただけに、
小沢に頭を下げて連立参加を依頼する事は、野中にとって屈辱以外の何物でもありませんでした。
ですが、自民党の為、小渕の為、そして小沢を追い落とす為、
全てをかなぐり捨て、「悪魔」に土下座までして、小沢自由党を連立政権へと誘い込みます。
こうして、まずは自民党と自由党による『自自連立政権』が誕生します。
しかし、いったん自由党が政権に参加してしまえば、後は野中の思う壺でした。
政権に参加すると言う事は、巨大な権限を手にする事であり、それはまさに麻薬そのものです。
一度麻薬の味を覚えてしまえば、それを自分から捨て去る事はなかなか出来ません。
自民党を切り崩すつもりで自民党の懐に入り込んだ小沢は、
野中の思惑に乗せられてしまい、逆に自由党を切り崩される事となります。
まあ、それが実現するのは、もう少し後の話になりますが。

こうして誕生した自自連立政権は、連立参加時の小沢が行った政策提案を受けて、
「衆院比例の50議席削減」法案を提出します。
そして法案提出から5日後、小渕が公明党への連立参加を打診します。
これにより自自連立へ公明党が参加し、『自自公連立政権』が誕生。
比例定数の削減は、公明党の意見が入れられて「20議席削減」に落ち着きます。
現在、衆院比例が180議席なのは、こうした流れにより決まった数ですね。
もちろん小沢としては、これは正直言って面白くない。
またこれを機に、自民党が連立内での比重を公明党へとドンドン傾けていくと、
影響力の低下に反比例する形で、焦った小沢は自由党の政策案実行を強行に主張。
それも受け入れられないと、自民党と自由党の合併を画策し始めますが、
これも野中によって潰されて、小沢は連立離脱の方向へジワジワと追いやられていきます・・・・
ですが、野中の思惑通り、そんな小沢に付いていく自由党議員は多くありませんでした。
当然それまでの間に野中の方も、自由党内の切り崩し工作を行っていた訳です。





 第10章:自民党内の不協和音

自自公3党の党首会談が決裂し、小沢自由党の連立離脱が決定。
そして、その翌日・・・小渕が倒れて、そのまま帰らぬ人となります。
小沢を利用し、追い落とそうと動いていたのは、官房長官の野中であり、
小渕自身は、小沢の政策提言も出来うる限りは飲もうと動いていただけに、
自由党の離脱問題は、相当の心労になっていたのでしょうねえ。
海外メディアからは「冷めたピザ」と揶揄され、就任当初は低かった支持率も、
様々な人の意見を上手く取り入れ、調整力と果断な決断力でうまく政策運営を行うと、
親しみやすいキャラクターから、支持率をジワジワと上昇させていた矢先の訃報でした。
この小渕政権突然の終焉は、その後の自民党の行方を大きく転換させていく事になります。
また小沢も、こうした状況下で「連立離脱」を表明せねばならず、
更には自由党議員の半分以上が、『保守党』を作って連立政権に残留した為、
「小沢の政治生命は終わった」と、多くの人に見られました。
自民党と対決する事で国民の希望を得ていた人物が、
その自民党と連立し、しかも特に成果もないまま、同志を減らしての離脱ですからねえ。
国民からも、政界内からも、もう大きな支持を得る事は無いだろうと思われたのも、
ある意味では当然の事であったかと。
ちなみに、自由党から保守党へと参加した主なメンバーとしては、
扇千景・野田毅・海部俊樹・二階俊博・加藤六月・小池百合子・松浪健四郎などが居ました。

一方、自民党では、急に倒れた小渕首相の後継問題が起こります。
その前に、この当時の自民党派閥の状況を説明しておきますと、
以前にも書きましたが、三塚派は森喜朗が派閥を継いで「森派」となっており、
その直前、亀井静香は三塚派を離脱して「亀井派」を結成。
渡辺派は渡辺の死去により、先代の中曽根が返り咲いていましたが、
なかなか若返りが図られない事に焦れて、山崎拓が離脱し「山崎派」を結成すると、
残された旧中曽根派は、亀井派と統合して『志帥会「村上・亀井派」』となります。
また宮沢派では、加藤紘一が跡を継いで「加藤派」となりますが、
その直後、加藤派から河野洋平が離脱して「河野グループ」を結成していました。
ちなみに河本派は、河本の引退により集団指導体制となり、「旧河本派」と呼ばれました。
ここで整理しておきますと、以前は「5大派閥」として知られた自民との派閥も、
派閥後継争いにより、山崎・亀井・河野が飛び出して新派閥を作った事で、
「小渕派」「加藤派」「山崎派」「森派」「村上・亀井派」「旧河本派」「河野グループ」と、
以上7つの派閥に分裂している状態でした。

そして、小渕が倒れる半年前に行われた自民党総裁選挙では、
公明党と連立した小渕に反発する形で、加藤と山崎が出馬。
その直前に、分裂させる形で派閥を引き継いだ加藤と山崎の2人は、
上を目指す為の登竜門、更には派閥内の結束を固める意味合いもあって、
この総裁選へ出馬したですが、無投票で再任されたかった小渕は、
2人の出馬を「安定政権を目指す自民党への反逆」と見なし、
総裁選ではそれなりに健闘を見せたものの、2人は党内の非主流派へと追いやられます。
加藤と同じ自民党左派の政治家であり、橋本内閣でも共に協力しあっていた野中は、
「小渕の次は君だから」と出馬取り止めの説得に回りますが、不発。
その為、小渕急病という事態になった時、加藤へ後継の話が回る事はありませんでした。

小渕が倒れ、首相への復帰が無理だと判明すると、
小渕内閣を支えた自民党主流派のトップたちがホテルへ集結します。
小渕派からは、衆議院の野中広務と、参議院の青木幹雄が、
村上・亀井派からは、衆議院の亀井静香と、参議院の村上正邦が、
森派からは森喜朗が出席し、5名による密室会談で小渕の後継首相は森に決定。
連立維持の現状派が政権を引き継ぐ事で、公明党側もその決定を承認し、
これにより、清和会から22年ぶりに総理総裁が誕生する事となります。
森総裁、そして森首相が誕生すると、自由党に代わり保守党が加わって、
新たに『自公保連立政権』がスタートする事になります。
ちなみに小渕が倒れた後、小渕派は橋本派へと名前を変ます。

ところでこの頃、野党第1党である民主党はどうだったのかと言うと、
第2期の「新・民主党」が誕生した直後は、
政党自体の人気は、「寄せ集め」の印象が強くて低調でしたが、
代表である菅直人の人気だけは、未だ抜群に高く、
菅代表と民主党のあまりの人気の違いに、マスコミからは、
「官民格差」を文字って、『菅民格差』などと揶揄されていました(笑)。
しかし党内では、保守派とリベラル派に分かれる党内事情に対して、
調整役をほとんど果たせなかった事で、リーダーシップの欠如が露呈し、
更には自らの不倫問題で国民(特に女性)からの人気が急落すると、
民主党の代表選挙に敗れ、代表の座を鳩山由紀夫に明け渡す事になります。
ちなみにこの間、弟の鳩山邦夫の方は、こうした民主党のゴタゴタに嫌気がさし、
都知事選出馬を理由に民主党を離党すると、都知事選落選後には自民党へ出戻ります。
この時、鳩山邦夫・舛添要一・明石康・三上満・柿澤弘治などを破り、
激戦を制して東京都知事に就任したのが「石原慎太郎」でした。

こんな状況で行われた、2000年の衆議院選挙。
新たに民主党の代表となった鳩山は、発言がぶれて自民党から攻撃されたり、
「加藤紘一が離党すれば首相に推す」などと発言して叩かれたりと、
わざわざ菅から代えたのに、却って民主党の勢いを削ぐようになっていました。
しかし、鳩山が救われたのは、自民党の森が自分以上に駄目だったと言う事ですね(笑)。
森は失言に失言を重ね、それをマスコミが面白おかしく取り上げる事で、
小渕時代に盛り返してきた自民党の勢いを、一転して森が削ぐようになります。
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* 2000年 衆議院選挙(480議席)
*  与党  自民:233 公明:31 保守:7
*  野党  民主:127 自由:22 共産:20 社民:19 その他:21
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結果は、自民党は減少、民主党は増加とは言え、
現実的には「両党とも敗北」といった感じで、
「自民党はだらしないけど、民主党は不甲斐ない」という民意が表れました。
強いて勝利者を上げるなら、自由党と社民党ですかねえ?
自由党は議席数を伸ばした事で、「死んだ」と見られていた小沢に対して、
まだまだ期待する層が幾らかは残っている事を示しましたから。
一方、自民党でも民主党(新進党)でもない「第3の選択肢」として、
議席数を増やしてきた共産党ですけど、
そうした国民の期待に対して、古い党の気質を変えようしなかった為、
この辺りから、ジワジワと勢いを失っていきます。
土井たか子が党首の座に戻り、福島瑞穂・辻元清美・田嶋陽子などを擁立して、
女性政策路線に舵を切った社民党は、一時的に少し盛り返しますが、
結局、少し遅れて共産党と同じ道を歩んでいく事となります。

この選挙の結果、一応は議席を増やした民主党側は、鳩山代表続行を承認。
ここで鳩山は、党内の結束強化を考えて菅をNo.2の幹事長に据えるが、
代表返り咲きを狙う菅をそんなポジションに置いた事で、
党内がまとまる所か、却って混乱するようになっていきます。
正直な所、菅も鳩山もリーダーシップに欠けるのに、2人ともトップに立ちたがる。
ただでさえ、保守系もリベラル系もいる寄せ集め政党の民主党が、
そんな両者による2頭体制で、党運営がうまく行くはずもありません。
自民党の敵失に助けられているうちは良いですが、
相手の敵失がない場合には大打撃を受ける危険性が、当時から語られていました。
そしてそれは、のちのち現実になって行きます・・・・
その引き金を引く事件こそ、『加藤の乱』でした。

議席数は減らしたものの、自公保3党で過半数を獲得し、継続が決まった森内閣。
しかし、その後も森の失言や失態は続き、内閣支持率も著しく低下すると、
それまで非主流派に追いやられていた加藤派と山崎派が、森降ろしに動き出します。
民主党の方も、こうした自民党内部の動向に呼応して、
森内閣の不信任案可決、そして加藤政権の樹立を画策し始めます。
ですが、こんな事がそう簡単に上手く行く訳がありません。
「小沢と渡辺」や「小沢と梶山」という組み合わせで上手く行かなかったモノが、
『鳩山由紀夫と加藤紘一』などという組み合わせで、上手く行くはずありませんでした。
当時、マスコミはガンガン煽っていましたが、蓋を開けてみれば、
橋本派の野中、そして森派の小泉により、加藤派は半数以上をあっさり切り崩され、
「加藤の乱」は不発のまま、終結する事となります。
(山崎派は、山崎自らが割ってまで作った派閥なので、ほとんど切り崩されませんでした)
実質的に、「YKK」の関係もここで終わったと見て良いでしょうね。
ちなみに切り崩された加藤派は、新たに「堀内派」を結成します。





 第11章:小泉劇場の到来

しかし、「加藤の乱」が不発に終わったとは言え、
森内閣の退陣は、既に時間の問題でした。
乱の終息から4ヶ月あまり後、森が退陣して総裁選挙が始まります。
この総裁選では、最大派閥の橋本派から「橋本龍太郎」、
森前首相の森派からNo.2の「小泉純一郎」、
村上・亀井派あらため江藤・亀井派からは「亀井静香」、
そして河野グループから後継者の「麻生太郎」の以上4名が出馬しました。
大方の予想では、橋本元首相の返り咲きが有力だと見なされていましたね。
確かに小泉は過去に2度、総裁選に出馬をした事はありましたが、
両方とも当選は度外視の出馬であり、始めの内のは今回もそうだと見られていた訳です。
亀井や麻生の出馬も、それまでの小泉同様、名を売り経験を積む為の出馬でした。
森内閣によって落ちた支持率をどう上げるかというのが焦点でしたので、
誰もが、橋本当確で、注目を集める総裁選であろうと見ていたものの、
最終的には、当初の予想を大きく裏切り、まさかまさかの小泉総裁誕生となります!!

そもそも最初の内は、同じ橋本派からでも、
名目上のボスである橋本ではなく、実際の実力者である野中を推す声も多く、
自公路線を支え、政策的にも近かった野中を、公明党も推してきましたが、
前回の首相時にやり残した事がある橋本が、
自らの出馬を猛烈にアピールし、橋本派からは橋本が出る事となります。
ちなみに、この野中出馬の件に関連して、派閥内で麻生が、
「部落出身の野中を、日本の総理にする訳にはいかんわな」と発言したとされ、
それを伝え聞いた野中は、以後、何度と無く麻生批判を繰り返す事となります。
と、まあ、橋本派からは橋本が出る事となり、
加藤の乱の後から、森退陣後を睨んで派閥工作などに動き出したんですが、
どうやらこれが、森を支える小泉をキレさせたみたいですね。
また橋本派では、この半年ほど前に、後見役に回っていた竹下が死去し、
鉄の結束を誇っていた経世会にも、綻びが見えるようになってきていました。
そして、加藤の乱を劇場的に報じたマスコミに、
この辺りで急激に増えた国民のインターネット人口。
こうした要素がいろいろと混じり合い、予想外の結果を導く事になる訳です。

次の内閣に求められる大きな課題は、
森内閣で落とした支持率を、如何にして回復させるかと言う事です。
橋本は「数の論理」で、派閥工作による議員数の確保に努めますが、
少しでも世間の注目を集めようと、各都道府県連にも3票ずつ票を与えた事で、
密かに、しかし確実に、形勢は橋本から小泉へと移っていきます。
そもそも小泉の所属する清和会は、ここの1番最初でも触れたように、
佐藤後継レースで勃発した、福田赳夫と田中角栄による『角福戦争』に端を発し、
経世会(旧田中派)には、事ある毎に苦渋を舐めさせられてきた訳です。
長年続いた「主流派の経世会・非主流派の清和会」という自民党の構造を、
一気にひっくり返す好機だと、小泉は捉えたんでしょうね。
加藤の乱の時、それを煽るマスコミの行動を、それを潰す側から見ていた小泉は、
「これをうまく使えば、物凄く大きな力になる」と、確信したんじゃないですかねえ?

まず小泉は、国民から絶大な人気があり、
同じく経世会支配を反感を持つ『田中真紀子』と手を組みます。
角栄の娘である真紀子は、クーデター的に田中派を奪った竹下派を、
本当に心の底から憎んでましたので。
当初は「虎の威を借る狐」ならぬ、「真紀子の人気を借る小泉」だった訳ですが、
この2人で衆院選ばりの全国遊説を行った事で、マスコミが食い付き、
歯切れの良い小泉節が、何度も何度もテレビで流されると、
ネットを通じて小泉人気が広まり、最終的にはフィーバーを巻き起こします。
こうなると、国会議員よりも国民目線に近い都道府県連は、
「支持回復の為には、この人気に乗るべきだ」として、多くの票が一気に小泉へ!!
ある意味で、国民世論を表した形である都道府県連の投票行動に対し、
「派閥の論理で投票しては、更に支持を失う」と、国会議員の票も小泉へ流れ出し、
終わってみれば、橋本との票差が2倍近く付く、小泉の圧勝となっていました。
経世会を纏めていた小渕を「中国王朝の宰相」に例えるなら、
この小泉は、「古代ギリシャの政治家」といった所でしょうかねえ?
小泉政権の誕生により、自民党は急激にその色を変化させていく事となります。

そして、小泉劇場による熱狂は、総裁選から3ヶ月後に行われた参議院選挙で、
改選議席の過半数を自民党単独で獲得するという、圧倒的勝利によって如実に表れます。
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* 2001年 参議院選挙(121議席)
*  与党  自民:64 公明:13 保守:1
*  野党  民主:26 自由:6 共産:5 社民:3 その他:3
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目新しさ、敵失、風頼み・・・・
それらを期待できず、「改革」という旗印さえ小泉に奪われ、
小泉改革に対するスタンスすら不明確な民主党が、選挙で勝てる訳もありませんでした。
そんな逆風の中、議席数を微増にまで押し上げた熊谷弘が、責任を取らされ更迭。
そして菅に更なる権限を与え、代表への返り咲き意欲を抑えようとする鳩山と、
どのような厚遇をされようと、お構いなしに代表返り咲きを目指し続ける菅。
国民やマスコミの目線が、「自民vs.民主」ではなく、
自民党内部の「小泉支持派vs.抵抗勢力」へと移っていったのも、
ある意味では、当たり前だったのかも知れません・・・・
ですが、小泉が言った「古い自民党」とは「経世会支配の自民党」の事であり、
「自民党をブッ壊す」とは、『清和会主導の自民党に変える』という意味である事を、
小泉劇場から関心を持ち始めた人が、理解するのは難しかったかも知れません。





 第12章:民由合併と小沢の復活

その後も高い支持率をキープした小泉内閣は、
参院選後に行われた統一補選でも勝利し、久しぶりに衆院で単独過半数を獲得。
また、小泉内閣誕生の立て役者であり、外務大臣の職を与えられていた田中真紀子が、
外務省と衝突して外交が機能不全に陥ると、遂にはこれを更迭。
それにより、一時的に支持率は低下するも、
北朝鮮に渡り「日朝平壌宣言」を発表して支持率を回復。
国民からの支持により、党内力学を飛び越えて総理総裁になった小泉は、
高い支持率を維持する事で、内閣の後ろ盾を固めていきます。

一方、小泉劇場により、完全に蚊帳の外へ追いやられていた民主党では、
小泉訪朝と拉致被害者の消息がマスコミを賑わす中、代表選で再び鳩山と菅が対決。
結果は、事前の根回しにより旧民社党系を味方に付けていた鳩山が、
わずか12票差で菅を振り切り、民主党の代表に再選。
その後の人事で、旧民社党系の中野寛成を党No.2の幹事長に任命しますが、
これを「論功行賞だ」として、菅側に付いた議員たちが猛反発。
中野幹事長はすぐに辞任へと追いやられる事となります。
って、ハッキリ言って当時の民主党は、
代表選自体よりも、その後のゴタゴタの方でマスコミを賑わせるような状態で、
こうした党内の足の引っ張り合いにより、政党の支持率を下げ、
NHKの政治調査で、遂には民主党の政党支持率が『2.9%』という所まで転落させます。
代表に再選されたものの、就任早々から躓いてしまった鳩山は、
党と自らの威信を回復させる為、小沢自由党との合併へ動き出します。
まあこれは、少数野党へと転落した小沢が、
再起を賭けて、民主党へアプローチを続けていた結果でした。
しかし、幹事長人事でいきなり躓き、求心力を失っていた鳩山が、
今度は「自由党との合併する」と言った所で、民主党内の反発が増すばかりで、
結局鳩山は、自由党との合併構想を勝手に進めて党内を混乱させたとして、
再選からわずか2ヶ月あまりで、代表辞任へと追い込まれます。

再び行われた代表選挙で、若手議員は岡田克也を擁立するものの、
菅が圧勝で念願だった代表の座に返り咲きます。
ですが、再び菅が出てきた所で、既に国民的な人気を失い、
今では小泉人気に湧いている国民には、ほとんどインパクトのない再登板でした。
そうした状況もあり、自由党との合併話で鳩山を引きずり落としながらも、
今度は菅が自由党との合併を進めますが、これに民主党内が纏まらずお流れに。
また、この代表選の結果を受け、岡田支持に回っていた熊谷は民主党の将来を悲観し、
自分たち保守系が党内で蔑ろにされている現状から、民主党からの離脱を決意。
自民党の好調を余所に、公明党と連立政権を共にしながら、
議席数を減らし続けている保守党と合流して、新たに『保守新党』を結成。
党首には熊谷が就任し、民主党の保守系議員の受け皿になろうとしましたが、
民主党を抜け出し、政権与党へ加わった事で、
熊谷は却って、「裏切り者」のレッテルを貼られてしまいます。
合流した保守党も、元は自由党を裏切って出来た党である為、
マスコミはこぞって、保守新党を「保身党」と揶揄しました・・・・
ちなみに、保守党の党首であった野田は、既に党の将来を見限っており、
密かに単身での自民党復帰を画策していた所、それが未然に発覚して総叩きに合い、
保守新党へ参加する事なく、小池百合子などと共に自民党へと移ります。

こうして迎えた2003年の衆議院選挙ですが、
その直前、遂に民主党は自由党との合併を果たします。
再起を賭けてアプローチを続けた自由党にとって、
実に3度目の正直による『民由合併』の実現でした。
これが、第3期とも言うべき「現・民主党」ですね。
まあ、リベラル系の議員は保守政治家の小沢を警戒し、
保守系の議員も多くは新進党出身なので、未だに小沢を毛嫌いし、
民主党内では相当の小沢アレルギーがあったものの、
現状に於ける自民党と民主党の勢いの差を鑑みれば、
衆院選を前にして、背に腹は代えられなかったという事ですね(笑)。
そうした民主党内の反発を少しでも抑える為に、小沢は自由党を解党し、
吸収合併という形で民主党に加わり、自ら「一兵卒として働く」と宣言します。
また、このような表面上のパフォーマンスだけでなく、
事前に旧社会党系の横路と会談し、政策を摺り合わせたのも大きかったですね。
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* 2003年 衆議院選挙(480議席)
*  与党  自民:237 公明:34 保守新:4
*  野党  民主:177 共産:9 社民:6 その他:13
*****************************************************************************
そして、小泉の前に苦戦も予想されていた民主党は、
終わってみると、なんと177議席獲得という大勝利!!
これ程の議席数は、「過去に自民党以外では獲得した事がない」と言えば、
それが如何に、民主党にとって大躍進だったかが分かると思います。
小泉の首相就任から2年が経ち、さすがに人気が落ち着いてきた事と、
小沢が加わった事で、民主党が政権交代可能な政党に変化するのでは?という、
有権者の思いが加わっての、民主党の勝利と言われています。

とは言え、別に自民党も負けた訳ではないんですけどね。
自民党単独でも、過半数近くの議席は取っていますし、
公明党も堅実に議席数を積み上げて、連立与党では十分に過半数に達してますから。
ただし、連立内での保守新党だけは別で、この衆院選で4議席しか獲得できず、
選挙から10日あまり後、自民党へと吸収合併されます。
これが今の自民党『二階派』ですね(二階は保守新党No.2の幹事長職にありました)。
まあ、公明党との連立も4年近くが経過し、既に党内外での拒否感が薄まった為、
社民党やさきがけの如く、用済みとなったという事ですよね。
ただ小泉の凄い所は、用済みだとポイ捨てするのではなく、
保守新党の党首である熊谷に対し、無所属ながら清和会支援で城内実をぶつけて、
熊谷を落選へと追い込んでいる所です!!(笑)
そして党内では、最大派閥である橋本派と同じ51人を当選させ、
着々と、清和会勢力の拡大を進めていきました。





 第13章:そして舞台は郵政選挙へ

こうして息を吹き返した民主党が、「政権交代可能な2大政党制」の実現へ向け、
着実に邁進していくかと言えば、現実はなかなかそう上手くは進みません・・・・
自民党が失態を犯し、民主党がそれを攻撃しようとすると、
民主党の方が蹴躓き、結局は自民党への追求が中途半端に終わる。
そんな失敗を繰り返していく内に、民主党は『ブーメラン政党』という、
ありがたくない異名を、マスコミから頂戴してしまいます(笑)。
せっかく衆院選で勝利した代表の菅も、このブーメランで自滅してしまいます。
菅のブーメランは「年金未納問題」でした。

年金改革法案が国会で議論されている最中、
現職大臣である中川昭一、麻生太郎、石破茂の3名が、
年金の未納がある事が発覚し、菅はこれを『未納3兄弟』と名付けて批判。
しかし数日後には、菅自身の年金未納も発覚した為に、
その後もぞろぞろ出てくる閣僚の年金未納に対して、追求の手が緩んでしまいます。
官房長官の福田康夫が、この件で長官職を辞職すると、
菅も代表の座を降りざるを得なくなり、結局辞任に追い込まれました。
当時から菅は、「自分の未納は役所側のミスだ」と主張しますが、
あの時の状況下では全く耳を貸して貰えず、却って見苦しい言い訳の如く写りましたが、
その後、菅の主張通り「役所側のミス」である事が判明しますが、既に後の祭りでした。
とは言え、この件で菅をあまり同情できないのは、
「未納3兄弟」の1人として追求した石破も、菅と同じケースだったんですよね。
また、あまりにパフォーマンスへ走りすぎて、
小泉の「厚生年金の違法加入」発覚など、攻撃すべき時を逸しているのが・・・・
その点、この官房長官辞任時も、後の首相辞任時も、
福田はそう言う政治的嗅覚だけは優れているんですよねえ(笑)。
と言うか、その嗅覚があればこそ、首相になれたのだと言えるでしょうが。

で、菅が辞職した後の民主党代表職ですが、
その直後は、この前の参院選で勝利をもたらした小沢に白羽の矢が当たり、
小沢自身も「人事刷新」を条件に、これを受け入れる姿勢を示すのですが、
小沢にもまた年期未納が発覚して、就任要請を辞退。
ただ小沢の場合、まだ年金の加入が任意であった頃の未納であり、
正直な所、そこまで問題は無かったのですが、
まあ、火中の栗は拾わずって事なのでしょうかねえ?
民主党に加わって、まだ半年程度という時期で、
まだまだ民主党内でも、小沢への警戒感も強かった頃ですし。
結局、菅の後任には、前回の代表選で敗れた岡田克也が就任する事となります。

この岡田は、小泉にとって、なかなかの難敵だったかも知れませんね。
菅の場合、小泉のパフォーマンス戦略にパフォーマンスで応戦して失敗してましたが、
岡田の場合、小泉と同じ土俵には乗らず、クソ真面目に応戦してましたからねえ。
堅苦しくてツマらないですが、その分、堅実であり崩し難い。
そうした事もあってか、岡田代表就任から2ヶ月後に行われた参議院選挙で、
わずか1議席とは言え、遂に民主党の獲得議席数が自民党を逆転!!
自公で合わせても、改選議席数の過半数に達する事が出来ず、
自らの人気を背景に戦ってきた小泉にとって、最大の敗北を喫する事となりました。
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* 2004年 参議院選挙(121議席)
*  与党  自民:49 公明:11
*  野党  民主:50 共産:4 社民:2 その他:5
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これだけの快勝である以上、参院選後に行われた代表選挙でも、
岡田の再選が無投票で決定します。
一方、敗北を喫した小泉も、これで黙って引き下がる訳がありません。
その為の仕掛けこそ、『郵政民営化』というドデカい花火でした!!

そもそも「郵政民営化」は、以前より小泉の持論でした。
貯金と簡保で、日本国民全体の金融資産のうち25%を有する郵便局は、
政府や官庁にとって、まさに国家の「第2の財布」であり、
もちろん、それだけ巨大な金額を扱うとなると、
自民党の主流派や大物議員などが、いろいろと利権を持っており、
また、郵便局員による組織票も、選挙には欠かせない大きな武器となっていました。
そこへ、非主流派の清和会所属であった小泉が、主流派からそれを奪う目的で、
「郵政の健全運営には民営化が必須!!」という理由の元、郵政の民営化に邁進。
そして自らが首相となった事で、現実にそれを敢行しようと動き出します。
当然、郵政利権を持つ政治家たちは、この民営化方針に大反対します。
すると小泉は、マスコミを通じて国民全体に、
彼らを「抵抗勢力」「守旧派」「改革の敵」として非難!!
郵政から失う組織票は、国民からの人気で十分に補えると考えた訳です。
ただし、郵政民営化に反対する議員の中には、利権とは関係なく、
国民の生活に深く根差した郵政ネットワークを壊す危険性すら孕む改革を、
単なる「政争の道具」として利用する小泉に、反発する議員も居たのですが、
小泉のパフォーマンスの前には、彼らの主張も打ち消されていきました・・・・

それにしても、相手派閥を追い落とすためとは言え、
巨大な利権と支持母体を、自民党から切り離してしまうんですからねえ。
ハッキリ言って、並大抵の政治家では不可能な選択ですよね。
福田赳夫の書生を経て国会議員になった経歴から、清和会所属ではありましたし、
派閥横断でYKKに属したりしましたが、基本的には「はぐれ狼」みたいな人で、
組織や人脈などという言葉とは縁遠からこそ、この決断が出来たのかも知れません。
そう言った意味では、組織や人脈や利権で歩む多くの政治家にとっては、
小泉のようなタイプは、まさに政界の常識に反する「変人」であり、
だからこそ亀井などの反対派も、小泉の対応を読み間違えたんでしょうね。
更に小泉は、小泉組の親分から大臣へ登り詰めた「小泉又次郎」の孫ですからねえ(笑)。
「入れ墨大臣」と呼ばれた祖父の勝負感を、孫の純一郎も受け継いでいるのかも知れません。

また本来であれば、こうした小泉の攻撃に対し、
最大派閥である橋本派「経世会」が立ちはだかって然るべきなのですが、
「参院のドン」と呼ばれた青木は、前回の総裁選時に小泉に籠絡されており、
真の実力者である野中は、こうした身内の裏切りに怒りと失望を覚えて既に引退、
名目上のトップである橋本も、闇献金問題などもあって引退を決意しており、
田中派時代より隆盛を極めた最大派閥も、完全に「寄せ集め」の集団になっていました・・・・
橋本派内からは、最長老格の綿貫民輔が反対派に回りますが、
反対派の主導したのは、前回の総裁選で反小泉票を集めた亀井派の亀井静香でした。
そして反対派の画策の結果、衆議院では法案が可決されたものの、参議院では否決。
反対派の面々は、これで「勝利」を確信したのですが、
小泉は「参議院で否決されて、衆議院を解散する」という驚天動地な対応で応戦。
政権誕生から4年半経ち、ジワジワと低下し続けていた小泉の支持率も、
『反対議員の追放&刺客候補の擁立』『これは郵政民営化の国民信託選挙』と煽ると、
これによって一気に10%以上跳ね上がり、マスコミも国民もこの選挙に熱狂します。
小泉プロデュースによる「郵政選挙」の開幕でした。

一方、自民党の公認から外された反対派議員たちは、
自民党への復帰を考え、無所属で出馬する議員も多かったですが、
反対を主導した亀井静香や綿貫民輔などは、新たに『国民新党』を結党。
また、当時長野県知事だった田中康夫の『新党日本』に参加する反対派議員も居ました。
こうした自民党のド派手な内部抗争に対して、
政権交代を狙い議席数を着々と増やして来た民主党は、真面目一直線の岡田代表の元、
「自民党の事には関与せず、民主党の政権公約を堅実に訴える」路線で行きますが、
そんな堅実路線は、台風級の小泉パフォーマンスにより、簡単に吹き飛ばされてしまいます。
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* 2005年 衆議院選挙(480議席)
*  与党  自民:296 公明:31
*  野党  民主:113 共産:9 社民:7 国民:4 日本:1 その他:19
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その結果、自民党は300議席に迫ろうかという大勝利で、
自公で合わせると、過半数どころか「3分の2」も越えてしまいます!!
「3分の2」という数字は、憲法の改正だって出来ますし(ただし参院も必要)、
「衆議院の優越」により、参院で否決されても衆院で再可決できる程の数ですからねえ。
更には、この選挙の結果によって、森派「清和会」は大きく議員数を増やし、
遂には橋本派「経世会」を抜き去り、名実共に「自民党最大派閥」へと、のし上がります。
まさに小泉にとっては、『歴史的大勝利』と呼べる圧勝でした。

この自民党大勝により、亀井にとって最良のシナリオであった
「自公がギリギリ過半数に達せず、国民新党へ助けを求める」という思惑は潰えます。
そして政権交代を訴えた民主党は、選挙前の現有議席を3分の1以上も減らし、
藤井裕久(代表代行)・石井一(副代表)・中野寛成(元幹事長)・鹿野道彦(元副代表)という
民主党内の大物議員さえ続々と落選する「大惨敗」を喫します。
堅物過ぎる岡田は、華やかな小泉に比べると、女性層からの人気が乏しかったのも原因の1つでした。
当然、この敗戦により、岡田は代表の座から降りる事となりますが、
この苦境時に、民主党内で岡田を支える人物は皆無でした・・・・
自民党・新生党・新進党と小沢に付き従い、新進党解党で裏切られた岡田は、
民主党の有力議員となっても、派閥やグループに所属する事を拒んでいた為、
組織による「しがらみ」はないものの、こうした時に助けてくれる「仲間」も居なかった訳です。
そう言う意味では、真面目で堅実という岡田のキャラを補うような仲間が居なかった事も、
この大敗を招いた1つの要因だったのかも知れません。





 第14章:小沢民主と小泉後継レース

郵政選挙での大敗北から6日後、民主党では岡田の後任を決める代表選が行われます。
立候補したのは、またまた出馬の「菅直人」と、
これを機会に党の若返りを図る「前原誠司」でした。
小沢は前原に対して応援の打診しますが、前原はこれを拒否。
そして結果は、『前原96票 菅94票 無効2票』という僅少差で、
優勢が伝えられていた菅を破り、42歳の前原が民主党の新代表に就任します。
「鳩菅の綱引きから、一気の若返りで民主党の体質さえ変わるのでは!?」
若くてルックスも良い前原に、国民は期待し、自民党は民主党への警戒心を強めます。
そうした党外からの目に応えるかのように、前原は党の要職をガラリと若手に替え、
与党との関係も、「対決路線」から「対案路線」への転換を図り、
更には、小泉が支持母体である郵政組織と決別して、国民から称賛を受けたのを見て、
民主党最大の支持母体である労働組合との関係見直しまでブチ上げます。
その上、「対米追従路線の批判」と「中国の軍事力増強への脅威論」を展開し、
党の内外から、右派からも、左派からも、非難を浴びる事となりますが、
逆に、こうした民主党代表の新しい姿勢を、評価する声も一方ではありました。

ですが、こうした前原の新路線は、
与党政権と対決すべき「最大野党」として、スタンスが凄く解り難く、
経験の乏しい若手主導の党運営、そして国会運営は、誠にお粗末なモノでした・・・・
それを最も端的に表してしまったのが、『永田メール問題』ですね。
ライブドア事件・防衛庁の官製談合・耐震偽装問題・牛肉輸入問題と、
いわゆる「4点セット」によって、自民党が窮地に追い込まれる中、
堀江からの電子メールを根拠に、永田議員がライブドアと自民党の関係を糾弾しますが、
それが偽造メールである事が判明し、永田を後押ししていた前原も窮地に追い込まれると、
代表の責任を肩代わりする形で、民主党の国会対策委員長である野田佳彦が辞任。
こうして混乱させてしまった国会をどうにかする為、野田の後任を探すものの、
強引なまでに若手切り替えを行い、それで躓いた前原に対して、
国会対策に精通した菅直人などのベテラン議員は、後任依頼を次々に断り、
最終的には、ほとんど隠居状態だった党内最長老の渡部恒三に、すがり付きます。
渡部が後任に就くと、そこはさすが元・竹下派七奉行の1人。
こんな人物に出てこられては、自民党の議員も頭が上がらず、
更には、マスコミ行脚をして「民主党の黄門様」などと祭り上げられ、
地にまで落ちた民主党の信頼も、何とかギリギリ甦生の方向へと向かいます。
しかし、代表である前原への信頼までは、それで回復する事はありませんでした。
結果、前原はわずか半年あまりで代表を辞任。
そのキッカケを作った永田も議員を辞職し、その後、自殺してしまいます・・・・

仲間が居らず失敗した岡田、仲間だけに頼り失敗した前原。
ここで遂に、民主党の代表として小沢一郎が登場してきます。
前原の後任を決める代表選では、菅が今度も挑戦するのですが、
2票差だった前回とは違い、今回は47票差という大差での敗戦。
この大敗が響いたのか、その後、菅は東京都知事への転身を検討し始めます。
まあ、郵政選挙で大惨敗し、永田メールで自爆した民主党は、
もう本当に、危篤寸前という状態でしたからねえ・・・・
1993年の55年体制の崩壊後、10年以上に渡る政界再編を経て、
自民党政権に対抗すべく最後に残った「民主党」が、ここで崩壊してしまえば、
日本の政治は当分の間、自公連立政権で運営され続ける事となる可能性が高い。
そう見る人も多かった為、菅の転身模索も、ある程度は現実味を帯びた話でした。

ですが、最後の最後にすがった小沢により、民主党はまさかの甦生を開始します!!
それは自自公連立政権からの離脱以来、久方ぶりの小沢の本格復帰でもありました。
民主党の初代事務局長であり、現在は政治評論家である伊藤惇夫が言うように、
自民党の強固な派閥に対し、民主党のグループは「文化系サークル」みたいなもので、
しがらみが少なくて自由度も高い分、凄味や纏まりに欠けて勝負感も精神力も弱い。
そんな文化系サークルの集団である、サークル連合みたいな民主党の中に、
「体育会系運動部」みたいな自民党の派閥から、
そうした体育会系の気風を最も濃厚に持つ小沢一派がやって来たと。
言うなれば、文化系サークル連合に、応援団か野球部が入ってきたようなモノです(笑)。
そりゃあ、これだけ毛色の違うのが入ってくれば、周りはみんな警戒しますけど、
状況が状況だけに、警戒なんてしている場合じゃ無くなってしまった訳ですね。
しかし、『狼に率いられた羊の群は、羊に率いられた狼の群より強い』という諺の如く、
小沢に率いられた民主党は、一気にその姿を変化させます。

その時の風頼みで、票固めという事をほとんどして来なかった民主党の議員に対し、
「足」を使って選挙区を歩き回り支持を広める、泥臭い地上戦での戦い方を徹底。
それまでの民主党議員は、街頭演説などの空中戦による選挙活動が多かったですからねえ。
更には小沢自らが、小泉により切り捨てられた団体組織を回る事で、
自民党の支持母体であった組織票(「コネ」)を切り崩していき、
苦しい地方や業界に対しては、手厚い支援政策(「カネ」)を約束する。
良いか悪いかは別として、新聞記者にしても、営業マンにしても、政治家にしても、
必要なモノは、「足」と「コネ」と「カネ」を駆使して得るものですからねえ。
また、民主党の党内運営に関しては、
岡田・前原と2代続けて若い代表が失敗した事で、若手議員も比較的に大人しく、
菅と鳩山による綱引きも、小沢が入って三極鼎立による「トロイカ体制」となって安定し、
リベラル系議員からの反発対策も、既に左派大物の横路とは入党時に連携済みであり、
小泉政策に対抗する為にも、左派色のある政策を提示している事で彼らを抑えていると、
小沢代表の元、民主党は過去最高の安定感を見せるようになっていました。

こうして小沢新体制が始動した民主党に対し、
自民党では、小泉後継レースが始まっていました。
郵政選挙の前から小泉は、「あと1年で辞める」と公言しており、
麻生太郎・谷垣禎一・福田康夫・安倍晋三といった総裁候補を競わせていました。
この4人は、まとめて『麻垣康三』とも呼ばれました。
ここでちょっと、当時の自民党の派閥を見てみましょう。
最大派閥となった小泉属する清和会は、森派から「町村派」に代わり、
総裁候補としては安倍と福田の2人を擁していた上、
また、その別働隊として「小泉チルドレン」を抱えていました。
一方、「津島派」と名を変えた元・最大派閥の旧橋本派は、
所属議員数では未だに、町村派に次ぐほど大規模な派閥でしたが、
有力議員の多くが、小泉政権時に政治的失脚か郵政造反へと追いやられ、
トップを継いだのが、出戻り組で、しかも元宮沢派の津島だという事実からも、
この経世会に、往時の力が既に無い事が分かると思います・・・・
その他には、郵政造反で派閥の長である亀井自らが抜けた師水会「伊吹派」、
小泉政権では、最初は良いように利用され、最後には捨てられた「山崎派」、
加藤の乱の際、切り崩し工作によって分かれて出来た「古賀派」が中規模派閥。
あとは、加藤の乱後も加藤に付いていき、そして派閥を継いだ「谷垣派」、
河野グループを継いだ「麻生派」、旧河本派の「高村派」、
旧保守新党系の「二階派」が小規模派閥と言った感じでした。
各派のおおよその議員数を記すと、町村派が70人、無派閥の小泉チルドレンが50人、
津島派が60人、中規模派閥が40人前後、小規模派閥が15人前後といった所です。
派閥が9つも乱立し、その中で清和会が図抜けて強大な力を持つという、
まさに「小泉の天下」といった状態だった訳ですね(笑)。

でもまあ、小泉後継レースと言っても、麻生も谷垣も派閥の長とは言え小派閥で、
強大な力を持つ小泉の意中が、同じ派閥の安倍となれば、
ある意味で、やる前から結果は見えていたんですけどね。
首相になりたくて、なりたくて、でもなれずに死んだ親分・安倍晋太郎を、
間近でずっと見続けてきた小泉は、息子の晋三を首相にさせたかったんでしょうね。
一方、安倍は安倍で、本人も父の事を間近で見てきただけに、
首相になりたいという願望はかなり強かったものの、
「大臣経験すらない自分には、首相はまだ早過ぎる」と躊躇してました。
それを小泉が、「1度機会を逃せば、次はもう来ないかも知れない」と背中を押し、
こうした一連の動きを客観的な立ち位置から見ていた福田は、総裁選不出馬を表明。
まあ元々、福田は郵政選挙前から小泉と距離を置き、
亀井が郵政造反で党内から姿を消すと、反小泉派の期待を集めるんですよね。
残る3人は、郵政選挙後に重要ポストに据えられ、表向きには親小泉の立場でしたから。
ですが、衆院選圧勝後の後継レースで、未だ小泉の人気と影響力が大きい以上、
「ここで安倍と争っても損をするのは自分」という、政治的嗅覚が働いたんでしょうね。
福田康夫という政治家は、なかなかそう言う部分が優れてますので。
それに安倍は、拉致問題での対応から国民的な人気も高かった為、
人気で戦う小泉のやり方に慣らされた自民党議員が、人気のある安倍へと集まり、
結局、総裁選の結果は2位の麻生を3倍以上離す圧倒的な得票数で安倍が勝利。
戦後最年少の52歳、しかも戦後生まれ初の首相として、安倍内閣が発足します。
ちなみにこの小泉後継レース、清和会に最大派閥の地位を奪われた経世会からも、
「小渕派のプリンス」として竹下から可愛がられた額賀福志郎が出馬を目指すのですが、
久間や青木などが派内から足を引っ張り、額賀自身の覚悟もブレて断念。
鉄の結束を誇った経世会のなれの果てを、衆目に晒す結果になります。





 第15章:小泉の影を引きずる自民党

こうして、安倍自民と小沢民主の対決構造となった国会では、
古い自民党の象徴的人物でもある小沢に対抗する為、
安倍は『戦後レジームからの脱却』を掲げるなど、自らの若さを全面にアピール。
ですがそれは一方で、経験不足や実績不足と表裏一体でした・・・・
そうした思いの裏返しなのか、安倍内閣は次々と重要法案を提出し、
教育基本法の改正・防衛庁の省昇格・年金特例法などを成立させ、
残業代ゼロ化・公務員改革・共謀罪法・国民投票法などにも取り組みました。
ちなみにこの間、安倍とスタンスの近い民主党の前代表・前原が、
民主党内で、新代表の小沢と最も距離を取っていた事もあり、
「前原らが離党して連立参加か?」という噂も流れますが、結局噂止まりに終わります。

ただ、安倍も前原と同じ様に、未熟さ故の失敗を繰り返してしまいます。
郵政選挙圧勝で得た圧倒的な数を背景に、国会運営は数に頼った強引なモノとなり、
また、自分を応援してくれた仲間を多く取り立てた事から、「お友達内閣」と揶揄され、
そうした閣僚たちが次々に不祥事を起こしていくと、
それは野党やマスコミにとって、格好の攻撃材料となりました。
その最たるものが、松岡農水大臣と赤城農水大臣の更迭問題でした。
金銭問題を起こした大臣を、更迭の決断が出来ないままズルズルと続投させた事で、
松岡農水大臣を遂には自殺へと追い込んでしまいました・・・・
それでも安倍は、赤城農相の時も決断できずに、そのまま参議院選挙へと突入。
閣僚の不祥事続出や、郵政造反組の復党、消えた年金問題などにより、
就任当初は70%近かった安倍の支持率も、1年で30%台まで低下させており、
また、2年前の郵政選挙で、自民党が勝ち過ぎてしまった反動も予想された為、
選挙前から、自民党はかなりの苦戦が予想されていました。
その上、前回の参院選では、わずか1議席差とは言え民主党に負けており、
今度の参院選で定数の半数以上の議席を獲得できないようだと、
参議院は自公合わせても「過半数割れ」となる厳しい状況でしたので、
自民党側ですら、選挙の焦点は「如何に最小限の負けに食い止めるか」でした。
こうした状況から、『衆参同時選挙で起死回生を狙うべき』との声も起こりますが、
大臣すら更迭できない安倍に、衆院を解散をする決断力はありませんでしたし、
そもそも安倍自身は、「そんなに負けるはずがない」と高を括っていました。
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* 2007年 参議院選挙(121議席)
*  与党  自民:37 公明:9
*  野党  民主:60 共産:3 社民:2 国民:2 日本:1 その他:7
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しかし、結局終わってみれば自民党は、民主党に過半数近くを取られる大惨敗・・・・
過半数には自公合わせても全く足りず、参議院での過半数割れが決定的となります。
赤城農相は戦犯の1人として槍玉に挙げられ、参院選直後に更迭となりましたが、
「この時期に更迭するなら、なぜ選挙前にしないのか!?」と、不満が爆発しました。
一方、選挙前には、自公でギリギリ過半数に達しないケースを考慮して、
自民党との連立も模索していた国民新党の亀井でしたが、
ここまで自民党が大敗してしまうと、却って民主党の方が高く買ってくれると、
民主党・国民新党・社民党で連携し、参議院で過半数の議席を確保します。
こうして参議院では、菅から9年ぶりに小沢を首相に指名。
前原の代表辞任時には、「これでもう終わりか」と思われた民主党は、
わずか1年で、10年前の全盛期の勢いを取り戻す超V字回復を果たします。
そして、風頼みの選挙体質から少しは脱却できたという実感もあり、
党内で警戒され続けてきた小沢は、一躍「民主党に欠かせない人物」となりました。

一方、大惨敗を喫した自民党では、安倍がまさかの「首相続投宣言」をします。
与党が参院で過半数割れを起こした時、今までのケースでは辞任が当然でしたので、
この続投に対しては、海外からも「驚き」として報じられていました。
衆参がねじれた『ねじれ国会』では、国会運営は恐ろしいほど難しくなり、
その原因を作った与党のトップが、この状況で居座るのは普通あり得ませんからねえ。
ただ安倍の場合、郵政選挙で得た「衆院3分の2」という最後のカードがあり、
参院で否決されても衆院で再可決する最終手段が残されていました。
内閣を改造し、国会で所信表明まで行って、安倍内閣が再始動した直後、
まさかの続投宣言からわずか1ヶ月で、再びまさかの「首相辞任」を発表しました。
その上、辞任の理由を「小沢代表が会談に応じてくれないから」と発言し、
更には、ガンから病み上がりの与謝野官房長官に「健康問題の為」と擁護されると、
「みっともない」「だらしない」と非難の声に包まれての辞任となりました・・・・

こうして期待度も高く始まった若き安倍内閣は、わずか1年で終了し、
次の首相の座を巡り、再び総裁選が行われる事となりました。
無念の途中退場をした安倍の意中は、自分を支えてくれた麻生にありましたが、
阿倍の出身派閥である町村派内では、森や中川秀直などの重鎮たちが、
敗色濃厚だった参院選の前から、安倍から福田へ首相をすり替えようと考えており、
中川が「安倍は麻生に辞任へ追い込まれた」と麻生クーデター説を流布した事で、
安倍の意を汲み、「次は麻生で」という派内の論調は一気に姿を消します。
第2派閥の津島派では今度も額賀が出馬表明をしますが、再び派内がまとまらず表明撤回。
また、安倍内閣で重用されなかった古賀派・谷垣派・山崎派が、福田擁立に同調した事で、
「勝ち馬に乗れ」とばかりに、他の派閥も福田支持へと回った事で、
安倍の辞任直後、後継首相として有力視されていた麻生は、
急転直下、「麻生派vs.残り8派閥」という勝ち目のない戦いを強いられる事となります。
しかしそんな劣勢の中、鳩山邦夫や中川昭一などが派閥の枠を越えて麻生を応援し、、
その結果、予想通り総裁選で敗れはしたものの、4割近い得票を得る大健闘を見せます。
そして清和会は、森・小泉・安倍・福田と、4代続けて首相を輩出する事になりました。

福田内閣が誕生すると、政治的嗅覚に長けた福田は、
自民党4役のポストを、伊吹・二階・古賀・谷垣と各派閥の領袖に割り振り、
また、安倍が改造人事で任命したばかりの閣僚たちをほとんど再任させ、
参院過半数割れという苦境に立ち向かう為、とにかく党内のバランスに注意します。
野党やマスコミから、「派閥均衡人事で、古い自民党に戻った」と責められますが、
少なくとも自民党内部では、混乱を収拾する事に成功します。
ですが、こうして党内を安定させても、
参議院を民主党・国民新党・社民党に握られている現実は変わらず、
ここで出てきたのが、自民党と民主党による『大連立構想』でした。

自民党と民主党による大連立という構想案を持ち出し、推進した人物こそ、
国政へも深く関わる読売新聞のトップ、渡辺恒雄(通称ナベツネ)でした。
「大連立が成れば自民党政権は安泰だし、自らの悲願だった憲法改憲も可能になる」
数十年に渡り、自民党と強力なパイプを持つナベツネには、
この自民党の苦況時に、民主党のトップが小沢である事が、逆にチャンスに見えた訳です。
難しい国会運営を強いられている福田としては、まさに渡りに船な提案であり、
自民党内部からの切り崩しをずっと画策してきた小沢にも、大変おいしい話に見えました。
ですが、それはあくまでトップ同士の思惑であり、
政権を維持する為に何でもやって来た自民党の方は、それを同意できても、
「政権交代」を旗印に戦ってきた民主党にとっては、とても飲める案ではありませんでした。
小沢は「参院で提出した法案を実現できる」「政権運営の経験を積める」などと、
政権交代を目指す上でのステップとして、この大連立案への同意を求めますが、
菅や鳩山のみでなく、今まで小沢に付いてきた面々までもが、
「政権交代を願う国民の期待を裏切る」「大政翼賛会を思い起こさせる」と大反対!!
両党のトップ会談で決まった大連立は、わずか2時間で御破算となると、
小沢は代表辞任を発表し、「今のままでは民主党に政権担当能力はない」と言い放ちます。
まあ、「国民も、国会議員も、そのほとんどはバカだ」と考えているであろう小沢ですから、
思わず本音が出たんでしょうけど・・・こういう所が、今まで失敗を続けてきた理由なんですよね。
小沢代表の元、急激なV字回復をしてきた民主党でしたが、
この件を期に、「もう民主党は立ち直れないのでは?」とマスコミが騒ぎ立てます。
ですが皮肉な事に、小沢に率いられた事で、政権交代が現実味を帯びていた民主党内では、
一致団結して小沢の説得を行い、遂には小沢に辞意撤回をさせるに至ります。
ある意味では、民主党の成長ぶりを見せるゴタゴタとなりました。
今までの民主党なら、足の引っ張り合いはあっても、引き留めなんてありませんでしたから。

とは言え、こうした騒動があった以上、
「小沢一派が離党して自民党と組むのでは?」「いやいや、前原たちが離党して連立に」など、
噂は先行する事となりますが、実際には現実的な動きが見られる事もなく、
あの大連立騒動を経た事で、却って民主党の戦略方向性が共通認識として纏まり、
それは反対に、参院を民主党に奪われている自民党を苦しめる事になりました。
下がり続ける内閣支持率の中、自国開催の「洞爺湖サミット」も無事果たし、
任期満了まであと1年と迫り、いつ解散総選挙があってもおかしくない所に突入すると、
国民的人気のない事を自覚する福田は、「違う首相で選挙を戦った方が良い」と突然辞任。
いつ選挙があるか解らない状況で公明党も、低支持率の福田を嫌ってましたし、
参院が過半数割れしている為、国会運営も困難を極め、
更にはアメリカの住宅バブルが弾けた事で、今後の世界経済が不安視される中、
「1年やったし、もういいや」って所だったんでしょうね、福田としては。
福田の場合、「首相になったこれをやりたい」という思いどころか、
「どうしても首相になりたい」という思いすら乏しい政治家で、
まあ逆に言えば、だからこそ客観的に物事を見られ、首相にまで辿り着けたんでしょうけどね。
辞任会見の際、「私は自分を客観的に見られる。あなたとは違うんです」という発言をし、
「自分で言うなよ」と、当時は随分笑われたものですが、
本人が言っちゃうのはアレでも、客観的に見る事が出来ていたのは事実なんですよねえ。

まあ、そう言った事で、福田は首相を辞任した事で、
ここ2年間で3度目の総裁選が行われる事となるのですが、
去年の総裁選でも善戦し、当時流布されたクーデター説もデマである事が判明した為、
もうやる前から、麻生首相の誕生が予想された中での総裁選でした。
ちなみにその数ヶ月前、「派閥のトップは古賀・総裁候補は谷垣」という取り決めで、
加藤の乱によって分裂していた古賀派(離脱組)と谷垣派(残留組)が再統一しており、
これにより宏池会(新・古賀派)の議員数は、第2派閥の経世会(津島派)にほぼ追い付き、
清和会(町村派)に対しても存在感を示せせる大派閥へと、のし上がっていましたが、
総裁選出馬に意欲を示す谷垣に対して、旧古賀派の面々が同意せず結局不出馬となり、
麻生内閣誕生後、古賀が選対委員長に留任された事で、再統一早々に亀裂が入り始めています。
でもまあ、小選挙区制が導入された事で、派閥よりも党が強くなり、
「派閥」という存在自体が、かなり液状化して来てますからねえ。
麻生の他に総裁選へ出馬した面々にしても、無派閥の与謝野は別として、
町村派の小池百合子も、山崎派の石原伸晃も、津島派の石破茂も、
派閥が纏まって、その派内の仲間を押すという事は無かったですし・・・・
とは言え考えてみれば、小池は保守党から入ってきた余所者で、
石原は山崎派の票目当てで派閥入りしたばかり、石破は出戻り組だという事を考えると、
派閥が纏まって押すなんて事は、ボスの後押しでもない限り、有り得ないのかな?

ちなみに自民党の思惑としては、総裁選挙を盛り上げて国民の関心を引き、
その上で人気者の麻生が首相となって、一気に解散総選挙へ打って出るとシナリオでしたが、
大量5人も出馬した総裁選は、結局自民党が期待した程には盛り上がらず、
総裁選勝利の結果発足した麻生内閣の支持率も、予想を下回るモノでした。
ただこの支持率は、麻生当人の人気をどうこう言う以前に、
これほどの短期間に、見え透いた自民党の演出を見せ続けられた結果とも言えました。
小泉劇場に乗せられた結果、自民党に300もの議席を与えてしまい、
時間の経過と共に、小泉改革による負の面も見え始めてきていた上に、
小泉より劣る役者と演出家が立ち回った所で、国民から呆れて見られるだけでしたので。
また、小泉以後の自民党が「総裁の人気」に頼るあまりに、
小沢によって、地上戦の選挙がうまくなって来ている民主党に反比例するかの如く、
自民党は逆に地上戦の能力や経験を落として来ていますね・・・・

結局、就任直後に解散へ踏み切れなかった麻生自民党は、
アメリカの住宅バブル崩壊に端を発する、
世界的な金融危機の勃発を理由に、解散時期をドンドン後ろへ下げていくのですが、
早期解散を決心していた麻生も、こうして決断すべき機会を逸すると、
ようやく手に入れた首相の座を出来るだけ長く維持したいと言う思いが強まって行き、
解散へと踏み切れないまま、ズルズルと解散を後回しにしていきます。
ですが、小派閥出身であり、また選挙対策として誕生した麻生内閣が、
政権を維持していく為には、いろいろな方面からの要求を聞き入れねばならず、
結果として、「ブレてばかりで、決断できない麻生」というイメージが定着します。
人気目当てで押し立てられた首相がこうでは、さすがに自民党内からも焦りの声が上がり、
こうして麻生降ろしの動きが見え始めるのですが、
丁度その時、タイミング良く西松建設の献金問題が発生し、
多くの自民党議員がスルーされる中、検察の白羽の矢が民主党代表の小沢に立ちます。
これにより、民主党も小沢も支持率を落としていき、
解散時期としてはこれ以上ない好機となりますが、
ここで解散しては、「国策捜査」の汚名を着る事が確実であり、この最後の機会まで逃します。
まあ麻生からすれば、「ここまで来たらサミットに出たい」という思いも強かったですし。
ただこれで、麻生降ろしの声は一時的に沈静化する事となります。
ですが、そうこうしている内に小沢が代表を辞任し、新代表に鳩山が選出されると、
民主党の支持率はジワジワと回復し、遂には大きな「政権交代風」となってしまいました。

こうして結局、任期満了まで2ヶ月となった現在、
念願だったサミット出席まで果たし、帰国後の麻生はどう言った決断をするのか?
都議選後に解散し、8月上旬投票か?
任期満了となってしまい、8月23日投票か?
会期末に解散し、8月下旬or9月上旬投票か?
それとも新総裁で、10月投票まで引き延ばすか?
まあどちらにしても、3ヶ月以内に衆議院選挙はやって来て、
国民の投票により、何らかの結果が出ます。
その結果が果たして如何なるモノとなるのか?
どういった結果となっても、日本政治の大きな転換点になる可能性は高いはずです。
そしてそれは、日本自体にとって、大きな転換点となるかも知れません。
自公が勝ってば、今度こそ民主党が分裂しないとも限りませんし、
民主党が割れなければ「ねじれ国会」が続いていく事を意味します。
また、民主党が勝って政権交代が起これば、それは日本の歴史に残る出来事となりますが、
ただし、あまりに民主党が圧勝しすぎてしまうと、
対抗馬となるべき自民党が瓦解して、2大政党制の実現が遠退いてしまう可能性があり、
逆に民主党のギリギリ勝利では、自民党をも巻き込んだ政権再編の引き金になりかねません。
って、どのケースとなるにしても、選挙後の最大のキー・プレイヤーは、
昨年の参院選に大勝した事で、参院に子分をいっぱい持っている小沢なんですよねえ(笑)。
そんな選挙の実施日が、もう目前にまで迫ってきています。
投票権を持つ人も、持たない人も、この転換点をしっかり見つめておきましょう。
長く生きていても、なかなか訪れないような機会ですから。
以上、このクソ長い「ひとり語り」、もしくは「小沢と小泉の物語(笑)」を終わります。
この続きを書くような時が来たとして、その時は一体どうなって居るんでしょうかね?





 あとがき

いや〜、書いた、書きまくった。
って、個人的な選挙気分が高まって、勢いで書いてみたは良いですけど、
これほどの長文、果たして最後まで読む人が居るのやら?
まあ、書きたいから書いたというだけなので、どちらでも良いんですけどね(笑)。
ちなみに、衆院選予想大会の方では、マニア向け予想大会まで作っちゃいました。
もちろん、通常版の方は都議選同様のライト仕様の予想大会ですけどね。
衆院選予想の本格運用に関しては、都議選予想大会が一段落付いてからになると思います。

ちなみに、必要以上の人物評や、政局に絡まない政策・事件などは、
『政局史』の流れを分かり易くする為、敢えてその記載を避けました。
政治家の人物評に関しては、「歴代首相の採点」とかを別の企画でやれば面白いかも?
最後に、これを全て読んで下さった方が居るのであれば、ありがとうございました(笑)。
また、記憶を頼りに書いた部分もあり、間違っている箇所があるかも知れませんが、
そうした部分に関しては、御指摘して下されば有り難いです。

ついでなんで、Flash作品同様、参考文献の方も記しておきますね。
与党である自民党の動きは、ニュース等で結構記憶に残っているので、
基本的には、野党関連についての書籍が多いです。

「政党崩壊」(新潮新書)
「戦後政治史」(岩波新書)
「自民党政治の終わり」(ちくま新書)
「戦後史のなかの日本社会党」(中公新書)
「民主党」(新潮新書)
「日本共産党」(新潮新書)

                                      [筆:2009年7月11日]



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